創世記 1章26~31節 「人の役割」
この大地も自然も人間を含むあらゆるいのちある生き物は神によって造られたのだと聖書は語りかけています。必ずしも創世記の創造物語は歴史的に証明される仕方で読む必要はありません。重要なのは、石ころも含めいのちあるものはすべて、神によって造られたのだということです。人間の力によってではなく、です。この造られたものであるという現実に対して謙虚さをもって受け止め直すことが現代社会にとって必要なのだと語りかけているのです。
「支配せよ」の意味を思いのままにできると勘違いしているかのような思い上がりから、人間は自由になれないでいます。この現実は近代から現代に至る中で急速に加速し、地球の温暖化により気象のバランスが崩れ、砂漠化や山火事あるいは大洪水などがのしかかって来ています。そこで、地球の環境の保護が叫ばれるようになってきています。でも、まだまだ人間の意識は地球全体に対して上から目線のように思われます。たとえば、「保護」という言葉と、その感覚です。人間が「保護」できると考え、その能力や技術や知恵があると思い上がっているのではないでしょうか。「保護」という言葉には優位に立場から、より弱い場に対しての優越感から自由でない感覚が付きまといます。ここでは「保護」というよりも「仕える」という感覚の方がよいと思うのです。「仕える」の方が相手に対しての尊敬と、自らを低くし謙虚になる意味合いがあるからです。この意味で「すべて支配せよ」という言葉を理解していくべきです。人間は神によって造られているがゆえの謙虚さに立ち返るということが大切なのです。
「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」は「熟慮の複数形」と言われます。これは、神と差し向かい、対話的存在であることによってのみ、人間は人間であり得るということかもしれません。神に聴き従う中で、自らの判断が謙虚さにおいて整えられているときに「似姿」として立ち現われるような存在なのだということでしょう。人間は「似姿」ではあるけれども、神と人間との間には決定的に大きな違いと限界が置かれているということです。人間には、神との関係の中で犯してはならない領域があることをわきまえて謙虚さに生き、地上に対する責任性にあるという自覚に留まることが求められているということです。一人ひとりの人間が神と差し向かい、ひとりの人間として謙虚さに基づく責任性において自立していくことから、信仰的な決断と行動において破壊的な「支配」ではなく「仕える」道へと招かれる、このような意味での創造信仰を今日の課題としてご一緒に確認しておきたいのです。
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