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2023年2月

2023年2月19日 (日)

創世記 1章26~31節 「人の役割」

 この大地も自然も人間を含むあらゆるいのちある生き物は神によって造られたのだと聖書は語りかけています。必ずしも創世記の創造物語は歴史的に証明される仕方で読む必要はありません。重要なのは、石ころも含めいのちあるものはすべて、神によって造られたのだということです。人間の力によってではなく、です。この造られたものであるという現実に対して謙虚さをもって受け止め直すことが現代社会にとって必要なのだと語りかけているのです。

 「支配せよ」の意味を思いのままにできると勘違いしているかのような思い上がりから、人間は自由になれないでいます。この現実は近代から現代に至る中で急速に加速し、地球の温暖化により気象のバランスが崩れ、砂漠化や山火事あるいは大洪水などがのしかかって来ています。そこで、地球の環境の保護が叫ばれるようになってきています。でも、まだまだ人間の意識は地球全体に対して上から目線のように思われます。たとえば、「保護」という言葉と、その感覚です。人間が「保護」できると考え、その能力や技術や知恵があると思い上がっているのではないでしょうか。「保護」という言葉には優位に立場から、より弱い場に対しての優越感から自由でない感覚が付きまといます。ここでは「保護」というよりも「仕える」という感覚の方がよいと思うのです。「仕える」の方が相手に対しての尊敬と、自らを低くし謙虚になる意味合いがあるからです。この意味で「すべて支配せよ」という言葉を理解していくべきです。人間は神によって造られているがゆえの謙虚さに立ち返るということが大切なのです。

 「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」は「熟慮の複数形」と言われます。これは、神と差し向かい、対話的存在であることによってのみ、人間は人間であり得るということかもしれません。神に聴き従う中で、自らの判断が謙虚さにおいて整えられているときに「似姿」として立ち現われるような存在なのだということでしょう。人間は「似姿」ではあるけれども、神と人間との間には決定的に大きな違いと限界が置かれているということです。人間には、神との関係の中で犯してはならない領域があることをわきまえて謙虚さに生き、地上に対する責任性にあるという自覚に留まることが求められているということです。一人ひとりの人間が神と差し向かい、ひとりの人間として謙虚さに基づく責任性において自立していくことから、信仰的な決断と行動において破壊的な「支配」ではなく「仕える」道へと招かれる、このような意味での創造信仰を今日の課題としてご一緒に確認しておきたいのです。

2023年2月12日 (日)

創世記 11章1~9節 「人間の欲望を神は‥」

 バベルの塔の物語は、「一つの民」「一つの言葉」としての価値観を神が退け、言葉の通じない混乱(バラル)へと導かれるという物語です。ここには審きしかないのでしょうか。

 わたしたちは、安易に「一つの民」「一つの言葉」に依り頼んでいれば安心だとか意思が通じ合うとか思いがちですが、それはただ単に合言葉や符牒などの幻想を共有しているにすぎないのです。どこかで本音を隠して相手に合わせるような言葉を選んでしまうことも多いでしょう。「強制的同一化」という側面も忘れてはなりません。自由に生きるためには、自分の言葉を自分の心に正直な仕方で紡ぎ出していくことが必要なのではないでしょうか。かの「聖霊降臨」にあずかった先輩たちが堂々とガリラヤ訛りで語った言葉が聖霊の助けにより通じていった出来事と、バベルの塔の物語は対をなしています。

 この時代も一つのバビロンであるという実感は、技術革新などの急激な発展や発達の中で感じてらっしゃると思います。神のようになりたい、有名になりたい、というバベルの塔の現実は世界中にあふれています。だからこそ、散らされる混乱というバラルを、恵みとしてもう一度与る道が備えられていることを信じることができるのではないでしょうか。

 神によって挫折させられたバベルの塔の物語が神からの恵みの物語として受け止め直されていくならば、より豊かな関係性に基づく世界が、僅かでも、わたしたちに近づいてくることが知らされつつあるのではないでしょうか。確かに、バラルの民であるがゆえに、同じ日本語を使う場合でさえ、わたしたちは言葉の通じなさを感じます。どうしてわかってくれないのか、言葉の使い方が下手なのだろうか、などなど悩みます。悩んでいいのです。通じない言葉、混乱させられているバラルな言葉の世界にあって、それでも聖霊の助けによって支えられていることに信頼していけばいいのです。バベルという「一つの民」「一つの言葉」から、バラルという混乱ではあっても自分が自分になっていく言葉の獲得を選び取っていくことを求めつつ歩んでいきたいのです。この混乱というバラルの方向性にこそ、主イエスにおいて実現した自由への道は用意されているはずだからです。

2023年2月 5日 (日)

創世記 4章1~12節 「きょうだい」

 カインとアベルの物語において投げかけられているのは、社会的・経済的・文化的により豊かとされる側から、より貧しい側に向かって、より強い側からより弱い側に向かって、自然に配慮する姿勢が必要だということです。傲慢にならず、卑屈にならず、守る側も守られる側もお互いを大切にしあうことが求められているということです。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」という神からの問いかけは、「弟の番人」「弟の守り手」という自らの立場を自覚していくことへの促しがあるのではないでしょうか。現代においても人類は「地上をさまよい、さすらう者」としての限界の中に置かれており、相も変わらず、様々な仕方での「きょうだい殺し」から自由になることができず、殺戮はやむことがありません。「血が土の中から叫んでいる」現実において呪われているとしか思えないような事態です。カインによるアベル殺害の出来事は決して原初史のエピソードのひとつに留まるものではありえません。人類がアダムとエバの末裔ならば、すべての民は「きょうだい」です。「きょうだい殺し」は現代に至るまで、様々な形を変え、規模の大小はあるけれど、人間の歴史の中で絶えることなく起こり続けているのです。

 解決への道筋はあるのだろうかと恐れや不安などに陥り、希望が見いだせなくなっています。より強力な軍事的な力を増し加えていく道しか世界には残されていないのでしょうか。確かに、即効性のある解決方法は見つからないでしょう。かといって手をこまねいていることも誠実ではないように思われます。カインの末裔であることをわきまえ、その呪いを自ら引き受け、「地上をさまよい、さすらう者」である現実の中で神の意志を受けて歩むことしかないのではないでしょうか。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」という思いの中で、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」という脅えに囚われてしまっているのでしょう。それでも、神の守りのゆえに祈りによって神から自らのあり方の正しさへと導かれ、「今この時」になすべきこと、すべきでないことを見極める知恵、絶望に陥らない希望、平和を実現する勇気、これら主イエス・キリストからやってくる聖霊の助けから始めていくことしかないのでしょうか。人間という限界のゆえに、絶対的な正しさを得ることは不可能ではあるでしょう。しかし、限界ある人間に対して託された道があると信じることはできるのではないでしょうか。

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