マタイによる福音書 4章23~25節 「教会の働き」
教会とは、礼拝に集められることが働きの目的すべてではありません。これだけでは不十分です。送り出し・派遣に与ることへとつながるのではければ不十分です。証しの歩みにこそ、教会の働きの使命があるからです。キリスト者であることとは、ただ単に洗礼を受け、聖餐にあずかり、礼拝において神の御言葉を聞くことに留まらないのです。受けることによって、証しの現場へと送り出されること・派遣されていくときにこそキリスト者になり教会になっていくのです。
主イエスの教えと奇跡によるいやしを今のこととして捉えなおしてくことが、その時々の教会のテーマとなります。現代の教会にこれを大まかに当てはめると、礼拝において語られた事柄をこの世に向かう奉仕の力とするという流れになろうかと思われます。この場合の「奉仕」とは「ボランティア」のような狭い意味ではありません。社会への向き合い方と言ったらいいでしょうか。礼拝において聖書に証言されている主イエス・キリストの御言葉に聴くことによって自らが整えられる必要があります。主イエスによって受け入れられ祝福されている事実に巻き込まれてしまっていることを受け止め直すことです。「幸い」の祝福にあって、「地の塩」「世の光」として証しへと歩みだすことです。上大岡教会の礼拝の最後に「派遣」があります。「わたしは誰をつかわすべきか。だれがわたしと共に行くだろうか。」との問いに対して、「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」と応答し、祝福を受け、歩み始めることです。
このことを福音書は、奇跡によるいやしの物語として表現しているのです。わたしたちは古代の世界観で奇跡によるいやしの物語と表現されていたことを現代に応用していく必要があります。確かに、これは奇跡なのではないのかと思えるような経験をすることも全くないわけではありません。神秘体験をする人もいるかもしれません。しかし、多くの人の場合は違います。日常の平凡な暮らしの中で、主イエスであったら、このような場面でどうするだろうか、どんな言葉を発するだろうか、どのような判断や決断をするのだろうかと思いめぐらせながら、その時々の判断を信仰に応じて選び取っていくこと、その時に働く力が奇跡なのです。わたしたちは礼拝から押し出されることで奇跡の力を得、その力の恵みの中で社会と向き合う時、そこにいやしが起こされるのです。
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