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2023年1月

2023年1月29日 (日)

創世記 3章20~24節「皮の衣といちじくの葉」

 蛇の誘惑によって最初の二人の人間は「善悪を知る」ことを覚えました。しかし人間の得た「知」は、神との対話の中から導き出される、より豊かなものではなくて、人間の自由意志という限界の中での極々限られた理解に過ぎません。人間の知恵の浅さとか狭さという限界を示すものです。「恥ずかしい」という感情を得た彼らが用意したのは、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」でした。これは下着の類ではなくて腰帯、正装として身に着ける誇りあるものだとされます。しかし、人間の側からの誇りある衣装であったとしても、限界のある「善悪を知る」知識や経験に縛られているものですから、滑稽さや浅はかさ、見せかけの威勢のよさを読み取ることができるのではないでしょうか。

 エデンの園での暮らしは「善悪の知識の木から」食べてしまったことによって破られて、その東にあるこの世へと追い払われました。様々な労苦を担いつつ暮らさなくてはならなくなったのです。しかし、この神による追放は、ただ単に切り捨てや見捨てとは決定的に違います。321節には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあるからです。ここで注意しておきたいのが、人間の作り出した「いちじくの葉」と神が用意した「皮の衣」の対比です。人間の薄くて浅い限界のある「善悪を知る」知識を越えて、追い出しにあたって、股間だけを覆う腰帯より優れた、身体全体を覆い守る「皮の衣」が用意されたのです。

 古代から現代に至るまで、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に象徴される歪んだ人間の万能感は、様々な「発展」を遂げています。パソコンやドローン、遺伝子操作、そして原子力、どれもみな生活向上という表面と同時に兵器という裏面をも忘れがちです。現代社会の中にある、身近なところから国際関係に至る地球規模でのあり方が、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に縛り付けられ、そこから身動きが取れなくなっている混迷が今なのではないでしょうか。

 わたしたちがアダムとエバの末裔であることを思い出せと創世記は語りかけています。人間の存在を規定しているのは「皮の衣を作って着せられた」という神の思いに支えられた守りである、という事実を思い起こせと。創世記は、人間の現実を神に照らされる仕方で見極めることを求めています。「いちじくの葉」の腰帯としての自らにより頼み、自らの判断を正しいとする万能感と神の守り導きである配慮としての「皮の衣」。このどちらを選び、歩むのかを今日の聖書はわたしたちに向かって問いかけているのではないでしょうか。

2023年1月22日 (日)

マタイによる福音書 4章23~25節 「教会の働き」

 教会とは、礼拝に集められることが働きの目的すべてではありません。これだけでは不十分です。送り出し・派遣に与ることへとつながるのではければ不十分です。証しの歩みにこそ、教会の働きの使命があるからです。キリスト者であることとは、ただ単に洗礼を受け、聖餐にあずかり、礼拝において神の御言葉を聞くことに留まらないのです。受けることによって、証しの現場へと送り出されること・派遣されていくときにこそキリスト者になり教会になっていくのです。

 主イエスの教えと奇跡によるいやしを今のこととして捉えなおしてくことが、その時々の教会のテーマとなります。現代の教会にこれを大まかに当てはめると、礼拝において語られた事柄をこの世に向かう奉仕の力とするという流れになろうかと思われます。この場合の「奉仕」とは「ボランティア」のような狭い意味ではありません。社会への向き合い方と言ったらいいでしょうか。礼拝において聖書に証言されている主イエス・キリストの御言葉に聴くことによって自らが整えられる必要があります。主イエスによって受け入れられ祝福されている事実に巻き込まれてしまっていることを受け止め直すことです。「幸い」の祝福にあって、「地の塩」「世の光」として証しへと歩みだすことです。上大岡教会の礼拝の最後に「派遣」があります。「わたしは誰をつかわすべきか。だれがわたしと共に行くだろうか。」との問いに対して、「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」と応答し、祝福を受け、歩み始めることです。

 このことを福音書は、奇跡によるいやしの物語として表現しているのです。わたしたちは古代の世界観で奇跡によるいやしの物語と表現されていたことを現代に応用していく必要があります。確かに、これは奇跡なのではないのかと思えるような経験をすることも全くないわけではありません。神秘体験をする人もいるかもしれません。しかし、多くの人の場合は違います。日常の平凡な暮らしの中で、主イエスであったら、このような場面でどうするだろうか、どんな言葉を発するだろうか、どのような判断や決断をするのだろうかと思いめぐらせながら、その時々の判断を信仰に応じて選び取っていくこと、その時に働く力が奇跡なのです。わたしたちは礼拝から押し出されることで奇跡の力を得、その力の恵みの中で社会と向き合う時、そこにいやしが起こされるのです。

2023年1月15日 (日)

マタイによる福音書 4章18~22節 「人間をとる漁師」

 主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。主イエスの逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、弟子たちの混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの思いを、復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと立ち返る勇気と希望が与えられたのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには、主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスは、活動の最初に4人の漁師たちを招きました。重要なのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の促しによって、それぞれの場で知恵を働かせ、工夫や創造によって、より人生の質を高めていくような人間関係を作り出していく方向に招かれていることを信じていくことです。より幸せな道、生きていることの幸いに生きることとはどのようなことなのかを絶えず主イエスにあって確認し、実践していくことに他ならないのです。この道への招きが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味するところです。

2023年1月 1日 (日)

マタイによる福音書 4章12~17節 「天の国は近づいた」

 教会が起こされて以来の2千年間、人間の世界は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であり続けたとしか理解できないほどの歴史なのだということを、いわゆる「世界史」、もっと狭く捉えて「教会史」において思い知らされ続けていることは否定できません。わたしたち自身の、そして歴代の教会の無力さを突きつけられることも少なくありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスの祝福における「すでに」を手放すことなく、完成していない神の国を待ち続ける「いまだ」という現実の中で、あえて希望することが赦された存在であることを確認しておきたいのです。

 「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの出来事はクリスマスによって指示されていることを思い起こしたいのです。「すでに」とは「大きな光を見」ることであり、「光が射し込んだ」事実を示します。この「すでに」と「いまだ」という「教会の時」という緊張関係を支えるのは、「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に他なりません。この事実は、マタイによる福音書の終わりの部分である、2816節以下で確認することができます。このようにあります。【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】「すでに」語られた主イエスの言葉に生かされながら、「いまだ」という「教会の時」を歩み続けなさい。そこに主イエスが共におられるのだから、不安や恐れや脅えが起こったとしても、支えと導きがあるのだとの固い約束がある、ここに希望をつなぐことが赦されているのです。キリスト者とは、「すでに」と「いまだ」との間の緊張の中で「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に生かされており、その責任ゆえの正義を求めていくものです。主イエスとしての「天の国は近づいた」という現実に支えられて「悔い改めよ」という方向に招かれていることを今日はご一緒に確認したいと思います。

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