マタイによる福音書 4章12~17節 「天の国は近づいた」
教会が起こされて以来の2千年間、人間の世界は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であり続けたとしか理解できないほどの歴史なのだということを、いわゆる「世界史」、もっと狭く捉えて「教会史」において思い知らされ続けていることは否定できません。わたしたち自身の、そして歴代の教会の無力さを突きつけられることも少なくありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスの祝福における「すでに」を手放すことなく、完成していない神の国を待ち続ける「いまだ」という現実の中で、あえて希望することが赦された存在であることを確認しておきたいのです。
「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの出来事はクリスマスによって指示されていることを思い起こしたいのです。「すでに」とは「大きな光を見」ることであり、「光が射し込んだ」事実を示します。この「すでに」と「いまだ」という「教会の時」という緊張関係を支えるのは、「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に他なりません。この事実は、マタイによる福音書の終わりの部分である、28章16節以下で確認することができます。このようにあります。【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】「すでに」語られた主イエスの言葉に生かされながら、「いまだ」という「教会の時」を歩み続けなさい。そこに主イエスが共におられるのだから、不安や恐れや脅えが起こったとしても、支えと導きがあるのだとの固い約束がある、ここに希望をつなぐことが赦されているのです。キリスト者とは、「すでに」と「いまだ」との間の緊張の中で「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に生かされており、その責任ゆえの正義を求めていくものです。主イエスとしての「天の国は近づいた」という現実に支えられて「悔い改めよ」という方向に招かれていることを今日はご一緒に確認したいと思います。
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