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2022年12月 4日 (日)

マタイによる福音書 1章1~17節 「破綻した系図の示すもの」

 マタイによる福音書の冒頭の部分は、人類の父だとされているアブラハムと、かつてのイスラエル統一王国を代表するダビデを中心に語られたイエスまでの「系図」となっています。これは一見、自分が歴史的に由緒正しい家柄であることを主張するためのものであることだと読めます。父方の系統の権力者たちを引き出すことで、イスラエルの歴史における血筋の確かさや純粋さを保証しようとしているようだからです。

しかし、「系図」の中に4人の女性が含まれていることに「破綻」を見ることができように思われます。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という4人です。ユダヤの完全な男性中心社会の系図に女性の名前が含まれている違和感のようなものがあるからです。このことを踏まえて、この「系図」はもっと広い視点から読まれるべきではないかという立場があります。ここに名前の挙がっている人たちは確かにイスラエルの歴史において重要な事柄を担った人たちであるには違いありませんが、清廉潔白な人たちではないことを忘れてはならないということです。「ウリヤの妻」という記述は、部下の妻を奪ったダビデの罪性を想起させますし、タマルは義父ヤコブを騙して子をなし、ラハブもルツも「異邦人」です。この「系図」は、民族の純粋さの破綻しているところにこそ主イエスが登場するのだとして、マタイによる福音書の初めで前もって語っているのではないでしょうか。

 さらに言えば、人間の限界としての「汚れ」とも言うべき事柄は、この4人の女性に閉じられるものではありません。系図に登場する人たちすべてに当てはまることです。誰一人として「汚れ」の歴史から逃れることはできないという人間の限界があるからです。この意味において、イエスの背負わされた歴史は神の呼ばわりの極みであったとさえいえるのではないでしょうか。「系図」を読み返すならば、血筋の正統性が破綻していることが分かります。中心にあるのは、神の呼びかけと招きにおける連綿とした歴史です。イエス・キリストに至ることで完結するのではなくて、わたしたちも、聖書の世界観、福音書の世界観に巻き込まれていくことで、この「系図」に連なるものとされてしまっているのです。中心的な課題は神の側からの呼びかけに対する応答と責任に対する態度決定だと迫ってくるのではないでしょうか。神の思いがどこに向かっているのかを示すために、ここにこそ神は目を留められてるのだと思い知るようにと、です。

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