ヨハネによる福音書 1章1~15節 「まことの光」
旧約聖書の天地創造物語にある、神の第一声は「光あれ」という言葉でした。この「光」とは、可視的なものではなくて、天地に関わる一切の「根源としての光」です。キリスト教会はこの「光」を、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」として再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:1-5a)。
この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」であるこの世界は混沌として絶望に満ちているように見えるかもしれない。しかしこの世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。
主イエス・キリストは、旧約に示された神「光あれ」との思いが人となった姿そのものです。この方こそが「まことの光」「根源的な光」なのだと確認するのがクリスマスを祝うということです。現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。「光あれ」という言葉によって開かれた神の祝福が、イエス・キリストという「まことの人」として、わたしたちのところに来られたという事実から、人間の中にある深くて暗い「闇」が明るみに出される方向へと導かれていくのではないでしょうか。
この意味において、クリスマスを祝うことは「平和」への願いや祈りを込めて歩むことと別のことではないのです。光としての主イエス・キリスト、その誕生の光のまことに照らされることによって、世界中を覆いつくしているかに見える「闇」の現実を今、自分たちの置かれている場から応えていくことが求められているのではないでしょうか。「クリスマスおめでとう」という嬉しい挨拶の中には、主イエスの語られた「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」という祝福の力が込められているのです。
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