マタイによる福音書 1章18~24節 「共にいる神」
天使が夢でヨセフに現れて、「マリヤが男の子を生む。イエスと名付けなさい」また「その名はインマヌエルと呼ばれる『神は我々と共におられるという意味である』」と語ります。今日の箇書を読むと、名前はイエスなのだけれども、その中身にはインマヌエルという意義が込められているということになります。イエスとは「救う者、救いに関わる者」という意味です。インマヌエルは「神が我々と共におられる」ということですから、神の御子がイエスでありインマヌエルであるということは、神は我々と共にいる、それが救いなのだということです。
マタイによる福音書の最後は「 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締められています(28:20)。
「インマヌエル」という言葉は旧約のイザヤ書7章にしかありませんが、神が共にいるというイメージは旧約から引き継がれています。①創世記27章~。ヤコブが双子の兄エサウから長子の祝福を父イサクから卑怯な方法でだまし取ることが原因となり殺されないために逃げるたびにおいて。②出エジプト記3章~。モーセはエジプトを脱出させようとする重い使命に恐れをなした時。③ヨシュア記第1章から。ヨシュアがモーセから任務を託された時、不安と恐れに襲われた時。
旧約の困難な旅路を支えるというイメージをマタイによる福音書のインマヌエル=神は我々と共におられるのだと再解釈することができます。人生は旅にたとえられますが、先ほどの旧約の記事に従えば、実際の旅、しかも非常に困難さを伴うものであったことが分かります。
「共におられる」神としてのイエスのイメージは、いくつかの詩編を読みながらイメージを広げることができると思います。23編によれば、羊飼いとして羊である民を導き、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」という平安の内にいるようにしてくださる方であり、121編によれば旅立つ人の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という不安や恐れに対して「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」との信頼のもとで歩みださせる力ある励ましなのです。
クリスマスとは、神が人となる仕方での旅だとすれば、ここに招かれているわたしたちの人生という旅に共なる主イエスを迎えることに喜びのないはずがありません。「
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