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2022年12月

2022年12月24日 (土)

ヨハネによる福音書 1章1~15節 「まことの光」

 旧約聖書の天地創造物語にある、神の第一声は「光あれ」という言葉でした。この「光」とは、可視的なものではなくて、天地に関わる一切の「根源としての光」です。キリスト教会はこの「光」を、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」として再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」であるこの世界は混沌として絶望に満ちているように見えるかもしれない。しかしこの世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。

 主イエス・キリストは、旧約に示された神「光あれ」との思いが人となった姿そのものです。この方こそが「まことの光」「根源的な光」なのだと確認するのがクリスマスを祝うということです。現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。「光あれ」という言葉によって開かれた神の祝福が、イエス・キリストという「まことの人」として、わたしたちのところに来られたという事実から、人間の中にある深くて暗い「闇」が明るみに出される方向へと導かれていくのではないでしょうか。

 この意味において、クリスマスを祝うことは「平和」への願いや祈りを込めて歩むことと別のことではないのです。光としての主イエス・キリスト、その誕生の光のまことに照らされることによって、世界中を覆いつくしているかに見える「闇」の現実を今、自分たちの置かれている場から応えていくことが求められているのではないでしょうか。「クリスマスおめでとう」という嬉しい挨拶の中には、主イエスの語られた「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」という祝福の力が込められているのです。

2022年12月11日 (日)

マタイによる福音書 1章18~24節 「共にいる神」

 天使が夢でヨセフに現れて、「マリヤが男の子を生む。イエスと名付けなさい」また「その名はインマヌエルと呼ばれる『神は我々と共におられるという意味である』」と語ります。今日の箇書を読むと、名前はイエスなのだけれども、その中身にはインマヌエルという意義が込められているということになります。イエスとは「救う者、救いに関わる者」という意味です。インマヌエルは「神が我々と共におられる」ということですから、神の御子がイエスでありインマヌエルであるということは、神は我々と共にいる、それが救いなのだということです。

 マタイによる福音書の最後は「 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締められています(2820)。

 「インマヌエル」という言葉は旧約のイザヤ書7章にしかありませんが、神が共にいるというイメージは旧約から引き継がれています。①創世記27章~。ヤコブが双子の兄エサウから長子の祝福を父イサクから卑怯な方法でだまし取ることが原因となり殺されないために逃げるたびにおいて。②出エジプト記3章~。モーセはエジプトを脱出させようとする重い使命に恐れをなした時。③ヨシュア記第1章から。ヨシュアがモーセから任務を託された時、不安と恐れに襲われた時。

 旧約の困難な旅路を支えるというイメージをマタイによる福音書のインマヌエル=神は我々と共におられるのだと再解釈することができます。人生は旅にたとえられますが、先ほどの旧約の記事に従えば、実際の旅、しかも非常に困難さを伴うものであったことが分かります。

「共におられる」神としてのイエスのイメージは、いくつかの詩編を読みながらイメージを広げることができると思います。23編によれば、羊飼いとして羊である民を導き、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」という平安の内にいるようにしてくださる方であり、121編によれば旅立つ人の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という不安や恐れに対して「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」との信頼のもとで歩みださせる力ある励ましなのです。

 クリスマスとは、神が人となる仕方での旅だとすれば、ここに招かれているわたしたちの人生という旅に共なる主イエスを迎えることに喜びのないはずがありません。「

2022年12月 4日 (日)

マタイによる福音書 1章1~17節 「破綻した系図の示すもの」

 マタイによる福音書の冒頭の部分は、人類の父だとされているアブラハムと、かつてのイスラエル統一王国を代表するダビデを中心に語られたイエスまでの「系図」となっています。これは一見、自分が歴史的に由緒正しい家柄であることを主張するためのものであることだと読めます。父方の系統の権力者たちを引き出すことで、イスラエルの歴史における血筋の確かさや純粋さを保証しようとしているようだからです。

しかし、「系図」の中に4人の女性が含まれていることに「破綻」を見ることができように思われます。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という4人です。ユダヤの完全な男性中心社会の系図に女性の名前が含まれている違和感のようなものがあるからです。このことを踏まえて、この「系図」はもっと広い視点から読まれるべきではないかという立場があります。ここに名前の挙がっている人たちは確かにイスラエルの歴史において重要な事柄を担った人たちであるには違いありませんが、清廉潔白な人たちではないことを忘れてはならないということです。「ウリヤの妻」という記述は、部下の妻を奪ったダビデの罪性を想起させますし、タマルは義父ヤコブを騙して子をなし、ラハブもルツも「異邦人」です。この「系図」は、民族の純粋さの破綻しているところにこそ主イエスが登場するのだとして、マタイによる福音書の初めで前もって語っているのではないでしょうか。

 さらに言えば、人間の限界としての「汚れ」とも言うべき事柄は、この4人の女性に閉じられるものではありません。系図に登場する人たちすべてに当てはまることです。誰一人として「汚れ」の歴史から逃れることはできないという人間の限界があるからです。この意味において、イエスの背負わされた歴史は神の呼ばわりの極みであったとさえいえるのではないでしょうか。「系図」を読み返すならば、血筋の正統性が破綻していることが分かります。中心にあるのは、神の呼びかけと招きにおける連綿とした歴史です。イエス・キリストに至ることで完結するのではなくて、わたしたちも、聖書の世界観、福音書の世界観に巻き込まれていくことで、この「系図」に連なるものとされてしまっているのです。中心的な課題は神の側からの呼びかけに対する応答と責任に対する態度決定だと迫ってくるのではないでしょうか。神の思いがどこに向かっているのかを示すために、ここにこそ神は目を留められてるのだと思い知るようにと、です。

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