イザヤ書 9章1~6節 「闇の中の光」
イザヤの時代に、彼が「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と語ったのは、戦争や紛争など危機的で何の希望も見いだせない絶望的な状況の中に輝く「大いなる光」を語らずにはおれなかったのです。武力を中心にした国と国との敵対も同盟も、その闇に満ちたものであるからです。これらを照らし出し、世界へと神にあって進んでいけると信じたためです。上っ面だけの信仰ではなくて、高ぶるものがなく、「悪を善と言い、善を悪と言う者」「闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする」このようなこととおさらばしていけるのだと信じたのです。
このイザヤの預言が主イエス・キリストの登場によって決定的な転回点となるのです。闇の中で待ち続けた「光り」がとうとう出現したのです。しかし、わたしたちの時代にあっても、世界は、各地で戦争や紛争があり、飢餓や旱魃があり、平和に生き安心して暮らし、十分に食べられない状況が広がりつつあります。暴力的な死の現実が突き付けられつつ、今日のいのちを確保することさえままならない状況にある人たちが少なくありません。「平和」には、程遠い世界です。それでも、イザヤの時代と違うのは、すでに光は与えられた希望の中にわたしたちは生きているのです。主イエスによって、「平和」のあるべき姿が示されたからです。闇の中に輝く光が目指すべき道を照らしてくれるのです。
歴史には始めがあれば終わりもあることを確認しておきたいと思います。天地創造神話によれば、この天地は神が創られたと証言されています。そして、いつになるのか分かりませんが、いつの日にか終わりを迎えることでしょう。キリスト教会では、この終わりの日に、主イエスが再び来られることを信じています。この時には、新しい天と新しい地がやって来るというのです。完全無欠の平和の到来です。いつなのかは分かりません。それでも、確実にやって来るのです。この来臨の主イエスを待つこととクリスマスを待つアドベントとは、どこか似ています。やがて来られる来臨主イエスとクリスマスの主イエスとは同じ方だからです。来臨の主イエスを待つ態度は、「目を覚ましていなさい」と。主イエスがしばしば語られたように、この世にあってどのような責任的な生き方、そのいのちを選ぶのかが問われます。同時にクリスマスの主イエスを待つこととは、今わたしたちがどのような世に生きており、どのような使命が与えられているのかもとわれているのです。
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