ルカによる福音書 12章13~21節 「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」
(収穫感謝礼拝)
今日の今日の聖書は、おそらく長男ではない人からの財産分与に関する仲介の願いに対する応えの形をとっていますが、財産のある者たちへの皮肉のたとえ話となっています。豊作だったために倉を大きく建て直して経済的に何の心配もない優雅な将来像を描いている金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と批判します。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とまとめの言葉を語ります。ここでの問題の中心は、富んでいる者がより富むことに溺れていく愚かさ、「貪欲」です。この「貪欲」からいかにして自由になっていけるのかという問題提起としても読むことができるのではないでしょうか。
この点についての試みの一つにフードバンクという運動があります。1967年にアメリカのアリゾナ州フェニックス市において世界で初めて始まったようです。これが日本では2000年くらいから広がり、様々な形やグループによって運営されています。フードバンクとは、安全に食べられるのに包装の破損や過剰在庫、印字ミスなどの理由で流通に出すことができない食品を企業などから受け取り、必要としている施設や団体、困窮世帯に無償で提供する活動です。食品ロスの軽減にもつながっています。これに加え、個人宅で余った食品を受け付ける活動や、別な形として「子ども食堂」などの活動も広がってきました。
非力な小規模教会であるわたしたちにはフードバンクのような大掛かりなことはできなくても、せめてわずかでもという願いから、住宅地の教会ができる「収穫感謝」の一つの形として、また年間を通して、集めた米を「信愛塾」に届けることをしています。
先ほど絵本『世界がもし100人の村だったら』から引用しましたが、これを「横浜がもし100人の村だったら」という風に発想したら、わたしたちにできることは他にも何かあるのではないかと思い描くことができる広がりへと導かれるのではないでしょうか。
主イエスが、「愚か」と呼んだ「貪欲」から、わたしたちは自由ではありません。しかし、主イエスからの気づきが与えられることによって、信じ従う道があるはずなのです。今日、この礼拝において「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」という道に招かれていることを感謝しながら歩んでいきたいと思います。
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