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2022年11月

2022年11月27日 (日)

イザヤ書 9章1~6節 「闇の中の光」

 イザヤの時代に、彼が「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と語ったのは、戦争や紛争など危機的で何の希望も見いだせない絶望的な状況の中に輝く「大いなる光」を語らずにはおれなかったのです。武力を中心にした国と国との敵対も同盟も、その闇に満ちたものであるからです。これらを照らし出し、世界へと神にあって進んでいけると信じたためです。上っ面だけの信仰ではなくて、高ぶるものがなく、「悪を善と言い、善を悪と言う者」「闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする」このようなこととおさらばしていけるのだと信じたのです。

 このイザヤの預言が主イエス・キリストの登場によって決定的な転回点となるのです。闇の中で待ち続けた「光り」がとうとう出現したのです。しかし、わたしたちの時代にあっても、世界は、各地で戦争や紛争があり、飢餓や旱魃があり、平和に生き安心して暮らし、十分に食べられない状況が広がりつつあります。暴力的な死の現実が突き付けられつつ、今日のいのちを確保することさえままならない状況にある人たちが少なくありません。「平和」には、程遠い世界です。それでも、イザヤの時代と違うのは、すでに光は与えられた希望の中にわたしたちは生きているのです。主イエスによって、「平和」のあるべき姿が示されたからです。闇の中に輝く光が目指すべき道を照らしてくれるのです。

 歴史には始めがあれば終わりもあることを確認しておきたいと思います。天地創造神話によれば、この天地は神が創られたと証言されています。そして、いつになるのか分かりませんが、いつの日にか終わりを迎えることでしょう。キリスト教会では、この終わりの日に、主イエスが再び来られることを信じています。この時には、新しい天と新しい地がやって来るというのです。完全無欠の平和の到来です。いつなのかは分かりません。それでも、確実にやって来るのです。この来臨の主イエスを待つこととクリスマスを待つアドベントとは、どこか似ています。やがて来られる来臨主イエスとクリスマスの主イエスとは同じ方だからです。来臨の主イエスを待つ態度は、「目を覚ましていなさい」と。主イエスがしばしば語られたように、この世にあってどのような責任的な生き方、そのいのちを選ぶのかが問われます。同時にクリスマスの主イエスを待つこととは、今わたしたちがどのような世に生きており、どのような使命が与えられているのかもとわれているのです。

2022年11月20日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章14~17節「わたしたちは神さまの子ども」(子ども祝福礼拝)

(子ども祝福礼拝)

 イエスさまが神さまの大切な子どもとして人間になったことによって、イエスさまは神さまからの力を受けて、他の人たちみんながきょうだいとなる道を作り出してくださいました。誰もが神さまの子どもとして愛されていることを教えてくれたのです。みんなのいのちが何よりもとても大切だよ、と教えたり、困っている人を助けたり、ご飯が食べられない人と一緒に食べたり、悲しかったり寂しかったりする人たちを慰めたり、力づけたりしたのです。今生きていることは、本当はうれしいことなんだよって。

 そうすると、みんなもだんだんとイエスさまの心が分かるようになってきたのです。イエスさまが大切に思っているのは、強い人や正しい人、ユダヤ教の教えや約束事を守ることではなく、もっと別なことだと気が付くようにされたのです。今日の聖書のローマの信徒への手紙の別のところでは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉がありますが、この手紙を書いたパウロさんが、誰かと「共に」「一緒に」生きていくことがイエスさまの心であり神さまの願いだと分かったからこそです。

 霊という目に見えない神さまの力を信じたパウロさんは、イエスさまという神さまから与えられた、より弱く、つらい人たちと一緒に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉を語る人にされたのです。目に見ることはできなくても、すぐ傍にいて守ってくれるし支えてくれている、そういう神さまが自分たちを子どもとして大切にしてくれていることを伝えていこうと決意したのです。神さまの子どものイエスさまが一緒にいてくれるから、イエスさまの力が働くところの人たちはみんな神さまの子どもなのだというのです。

 神さまがすぐ傍にいてくれる。そこにはイエスさまを中心とした神さまの子どもたちのつながりが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くという出来事として起こるのだということです。ここで一緒に喜んだり、泣いたりする、みんな神さまの子どもとして守られている安心感が与えられているのです。

 今日は、「子ども祝福礼拝」です。ここには子どもたちだけではなくて、おとなの人たちもいます。実は、今はおとなになっている人たちも子どもであった時代があります。今の子どもだけではなくて、昔子どもだったおとなたちも一緒に神さまの子どもなのです。一番上のお兄さんのイエスさまのきょうだいなのです。

 今日は、今の子どもたちに祝福を祈りますが、同時に昔子どもだったおとなたちも神さまの子どもとして守られているし、祝福されていることを忘れないようにしたいと思います。子どももおとなもイエスさまの神さまの子どもとして、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」というつながりの中で歩んでいこうよ、という呼びかけに包まれていることを忘れないように歩んでいきましょう。

ルカによる福音書 12章13~21節 「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」

(収穫感謝礼拝)

 今日の今日の聖書は、おそらく長男ではない人からの財産分与に関する仲介の願いに対する応えの形をとっていますが、財産のある者たちへの皮肉のたとえ話となっています。豊作だったために倉を大きく建て直して経済的に何の心配もない優雅な将来像を描いている金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と批判します。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とまとめの言葉を語ります。ここでの問題の中心は、富んでいる者がより富むことに溺れていく愚かさ、「貪欲」です。この「貪欲」からいかにして自由になっていけるのかという問題提起としても読むことができるのではないでしょうか。

 この点についての試みの一つにフードバンクという運動があります。1967年にアメリカのアリゾナ州フェニックス市において世界で初めて始まったようです。これが日本では2000年くらいから広がり、様々な形やグループによって運営されています。フードバンクとは、安全に食べられるのに包装の破損や過剰在庫、印字ミスなどの理由で流通に出すことができない食品を企業などから受け取り、必要としている施設や団体、困窮世帯に無償で提供する活動です。食品ロスの軽減にもつながっています。これに加え、個人宅で余った食品を受け付ける活動や、別な形として「子ども食堂」などの活動も広がってきました。

 非力な小規模教会であるわたしたちにはフードバンクのような大掛かりなことはできなくても、せめてわずかでもという願いから、住宅地の教会ができる「収穫感謝」の一つの形として、また年間を通して、集めた米を「信愛塾」に届けることをしています。

 先ほど絵本『世界がもし100人の村だったら』から引用しましたが、これを「横浜がもし100人の村だったら」という風に発想したら、わたしたちにできることは他にも何かあるのではないかと思い描くことができる広がりへと導かれるのではないでしょうか。

 主イエスが、「愚か」と呼んだ「貪欲」から、わたしたちは自由ではありません。しかし、主イエスからの気づきが与えられることによって、信じ従う道があるはずなのです。今日、この礼拝において「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」という道に招かれていることを感謝しながら歩んでいきたいと思います。

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