ルカによる福音書 16章19~31節 「神の食卓の風景」(世界聖餐日)
今日は「世界聖餐日」です。「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」です。
ルカと言行録の教会は、当時のギリシャ・ローマ世界の中にあって比較的経済的に裕福な国際人たちの集まりであり、自分たちの状況に対して「これでいいのか」という問題意識があったと思われます。自分たちは、今日の聖書で言えば「ある金持ち」の立場であり、貧しい人たちとの対比において審かれている存在なのだという自覚があったと思われます。16章26節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」という現実を主イエスからの厳しい問いかけとして受け止める姿勢があるのです。自分たちからは決して越えられない「大きな淵」を認めつつ、それでもつながることができないのかという問題意識があるのではないでしょうか。この物語のような死後の世界ではなく、今生きている、金持ちと貧しい人との関係なのだという問題意識があったはずです。ここで描かれているのは、金持ちに対する逃れることのできない審きです。しかし、金持ちであること自体が悪だとはルカは考えてはいないようでもあります。16章の初めの記事に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあることからすれば、富がより良い関係へと整えていくものとなる可能性に対して開いていると言えるのです。
わたしたちは今日の聖書を読みながら自らを省みると、いやいやいや金持ちの側じゃないよと思いがちだとは思います。しかし16章20節以降の「ラザロというできものだらけの貧しい人」という生き方も、ここにいるわたしたちの多くはしてはいないのではないでしょうか。両者を比べれば、少なからず金持ちの側により近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。
神の恵みの方向性は、主イエス・キリストにおいて事実として起こされました。このラザロの姿は、ただ単に虐げられた惨めな人間が今や父祖アブラハムのもとで宴会に与っている、ということではありません。ラザロにおいて現わされているのは(イザヤ書53章を参照)、貧しく弱く小さくされ軽蔑されて十字架に至った主イエス・キリストの姿なのではないでしょうか。ラザロとの間にある「大きな淵」とは、わたしたちと主イエス・キリストとの間にある「大きな淵」でもあります。
今日の聖書から読み返していくならば、主イエスがそうであったようにラザロの友となり仲間となる道につながっていくべき志を整えていくことが、聖餐の方向を定めていくことになるのではないかと考えるのです。「神の食卓の風景」とは、アブラハムの懐に抱かれたラザロの姿として描かれていることからすれば、「大きな淵」を乗り越えていと小さき者である主イエスと共なる、という挑戦的な生き方への招きです。この主イエスからの招きに応えていこうと願うものです。[
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