マタイによる福音書 9章32~34節 「自分の言葉で語る力」
今日の聖書は、悪霊に憑かれて口の利けなかった二人の人が主イエスのところに連れてこられ、語る力が与えられた物語です。この話は、実際に口で発する言葉に限定する必要はないと思います。人に向かって語ることや書くことだけでなく、全般的な自分の意志を伝えるということの広がりとして受け止めていいのだと思います。主イエスが悪霊を追い出すことによって言葉の力が与えられた物語として読むのです。
わたしは、言葉の力が圧倒的に欠けていますから、誤解されることもあるでしょうし、不用意な言葉を使うことも少なくありません。考えたことを整理して、伝える言葉にしていくことが得意ではないのです。それでも、隠れた神が主イエス・キリストという具体的な人間として見える姿で現れたこと、この方が十字架上の処刑を経て復活したこと、今や天に帰られた主イエスの神が聖霊として働き続けている、と言わざるを得ないのです。この、聖霊によって支えられ、導かれているがゆえに、今わたしはここにこうして立たされているのだと信じています。
聖書を読むと、自分自身の言葉の力の不足を感じたり、脅えたり、不安になったり、という場にこそ導きが与えられた記事がいくつも出てきます。出エジプトの指導者としてモーセは召命を受けた時「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と答えます。しかし神はアロンをその助けとして与えます。また、預言者エレミヤが召命を受けた時には「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」という彼に向かって神は次のように語りかけ、支えます「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」。怖じ惑い、怯むときに神は支えるのです。この支えが新約においては、主イエスの汚れた霊や悪霊を追い出す業に通じます。この、主イエスの言葉をマルコによる福音書13章には「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(13:11)として、「最後まで耐え忍ぶ者」(13:13)になるための相応しい言葉を聖霊が備えるのだという信仰理解が示されているのです。
言葉の力は、人間の内にはないのだということです。確かに、わたしたちは自分の言葉で語る力で表現しなければならない現実に何度もぶち当たると思います。しかし、これに対処するのは自分という主体であることに違いはないのですが、ここでの基本は、あくまで聖霊なのだという信仰がなければならないのです。主イエスの神が聖霊として働くことで共にいてくださることこそが、信仰者の現実なのだということです(ハイデルベルク信仰問答53を参照)。
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