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2022年10月

2022年10月30日 (日)

マタイによる福音書 9章32~34節 「自分の言葉で語る力」

 今日の聖書は、悪霊に憑かれて口の利けなかった二人の人が主イエスのところに連れてこられ、語る力が与えられた物語です。この話は、実際に口で発する言葉に限定する必要はないと思います。人に向かって語ることや書くことだけでなく、全般的な自分の意志を伝えるということの広がりとして受け止めていいのだと思います。主イエスが悪霊を追い出すことによって言葉の力が与えられた物語として読むのです。

 わたしは、言葉の力が圧倒的に欠けていますから、誤解されることもあるでしょうし、不用意な言葉を使うことも少なくありません。考えたことを整理して、伝える言葉にしていくことが得意ではないのです。それでも、隠れた神が主イエス・キリストという具体的な人間として見える姿で現れたこと、この方が十字架上の処刑を経て復活したこと、今や天に帰られた主イエスの神が聖霊として働き続けている、と言わざるを得ないのです。この、聖霊によって支えられ、導かれているがゆえに、今わたしはここにこうして立たされているのだと信じています。

 聖書を読むと、自分自身の言葉の力の不足を感じたり、脅えたり、不安になったり、という場にこそ導きが与えられた記事がいくつも出てきます。出エジプトの指導者としてモーセは召命を受けた時「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と答えます。しかし神はアロンをその助けとして与えます。また、預言者エレミヤが召命を受けた時には「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」という彼に向かって神は次のように語りかけ、支えます「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」。怖じ惑い、怯むときに神は支えるのです。この支えが新約においては、主イエスの汚れた霊や悪霊を追い出す業に通じます。この、主イエスの言葉をマルコによる福音書13章には「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(13:11)として、「最後まで耐え忍ぶ者」(13:13)になるための相応しい言葉を聖霊が備えるのだという信仰理解が示されているのです。

 言葉の力は、人間の内にはないのだということです。確かに、わたしたちは自分の言葉で語る力で表現しなければならない現実に何度もぶち当たると思います。しかし、これに対処するのは自分という主体であることに違いはないのですが、ここでの基本は、あくまで聖霊なのだという信仰がなければならないのです。主イエスの神が聖霊として働くことで共にいてくださることこそが、信仰者の現実なのだということです(ハイデルベルク信仰問答53を参照)。 

        

2022年10月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章27~28節 「ミャンマーの子どもたちと」 (キリスト教教育週間)

 ミャンマーは安定した歴史を歩んできてはいませんが、昨年2月1日に発生した軍事クーデターにより軍隊が国の主導権を奪い取ってからさらに厳しいことになっています。ミャンマーは軍隊によって成り立ち、成長してきたという事情がありますから、軍隊はミャンマーの人びとから支持されることなど必要としていません。軍隊こそが国を正しく導くのだという固い信念を感じさせます。要するに軍隊の言うことだけを聞く政権を作り出し、完成させるところにあるのです。軍事によって、すべての国を治める方向こそが正しいのだという理屈があるのです。そのために目障りなアンサウンスーチーとNLD(国民民主連盟)を排除したいという願いに基づいているのです。

 しかし、軍隊とは関わりなく穏やかで銃を向けられることなく暮らしたい、という多くの人々の中から具体的に対して明確に抵抗する人々もいます。その抵抗の一つが、先ほど観ましたスライド、アトゥトゥミャンマー支援の学習資料「ミャンマーに平和を」で展開されている、教育の働きであろうと思います。教育とは、ただ単に言葉や算数などの科目を知識として受け身で捉えることではありません。自分で考えることの基本を育てていくことです。自分がどのように生きていくのか、歩んでいくのか、などについては、直感とかフィーリングによるだけではなくて、自分の中で言葉を紡ぎ、発していくことによって育てられていくものです。この基本を押さえていけば、軍隊こそが、あるいは自分こそが正義であるという発想につながる人間になっていくことはないだろうと思います。その時々の雰囲気や空気に流されることなく、「わたし」になっていくことができると信じています。

 今日の聖書は次のように語りかけています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」。この聖書を広い意味として受け止めたいと思います。人のいのちが銃などによって脅かされていても、生き抜くための民衆の知恵の世界観があるのだと教えているのではないでしょうか。そのためには、具体的にこちらの側も銃をとるということも否定はできませんが、もっと別の抵抗の仕方もある、様々な賜物をもつ人々がいるのだから、知恵を出し合うことで開かれる道がある。もっともっと新しいことや別の物語やワクワクしながら喜んで抵抗していく、このようないのちのつながりに生きる道があると信じることが赦されているのではないでしょうか。

2022年10月16日 (日)

ルカによる福音書 18章9~14節 「『正しさ』の欺瞞から」

 今日の聖書を読むときには、ファリサイ派なのか徴税人なのかという二者択一・〇×式で、自分はどちらに当てはまるのかを考えがちになると思います。しかし、この二種類の人が例に挙げられているのは、どちらもそれは「わたし」の可能性としてあること、さらにはこの両者の間で揺れ動き続けている「わたし」のことです。わたしという存在をわたしとして理解するためには誰かと比べてしまうこともあるでしょう。その時に、このファリサイ派のように「うぬぼれ」と「見下し」によって自分が自分であることを確認してしまうこともあるでしょう。あるいは、この徴税人のように自分の存在根拠や頼るべきものが何一つなく、空っぽのような状態として自分を捉えているかもしれません。さらには、その間で揺れ動く悩める存在なのかもしれません。

 それら一切を含めた存在がわたしです、と認めていく正直さこそを主イエスは求めているのではないでしょうか。わたしというあり方は、ある時は高ぶった者であり、またある時は卑屈な者でもあるのです。そして、その間で自分とはいったい誰なのかに思い悩むわたしがいるのです。いわば、審きによって恵まれ、恵みによって審かれていくのではないでしょうか。この揺れ動きの中で受け入れられていくことによって、あるがままの自分自身を肯定していく道へと導かれていくのではないでしょうか。わたしという存在は、ここでのファリサイ派と徴税人のどちらでもあるのです。この、どちらでもあり、その間で揺れ動きながらも自分自身になっていく道を主イエスは見届けつつ、守り導いてくださるのだと信じています。

 ファリサイ派の立場であろうと徴税人の立場であろうと、そしてその間で揺れ動いていたとしても、主イエスは、審きと恵みによって、このわたしを見届けてくださっているに違いないのです。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。しかし「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という、その入れ替えの途上にあることを信じればいいのです。誰彼に見せるために義人を演じる必要はないし、自己卑下して自分のことを必要以上に愚かだと演じる必要もありません。今あるわたしが主イエスによって声をかけられ、招かれていること。導かれている現実に身を委ねていけばいいのです。ファリサイ派であるのか徴税人であるのかという立場を二つに分けて、どちらかを選び取れということではないのです。あるがままの姿で、主イエス・キリストの前での正直さに向かって歩んでいけばいいのです。その時々において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」との宣言に身を委ねていけばいいのです。そうすれば、人間の作り出す「正しさ」の欺瞞から自由になり、主イエス・キリストの神の「正しさ」に向かって生き直すことへと導かれるのだ、と信じます。

2022年10月 9日 (日)

ルカによる福音書 5章1~節11 「網をおろして」農村伝道神学校3年 後藤田 由紀夫 神学生

 群衆に取り囲まれるように、イエスキリストは現われる。そして日常生活の中のシモンたちに声をかける。「沖へ漕ぎだし、あなたたちの網を降ろして漁をしなさい」。シモンは漁師のプロ。お言葉ですが、と切り返すも、イエスに引き入れられていく。イエスの言葉は、シモンと、シモンの廻りの関係性を示す複数形の言葉に変わり、そこから場面が急展開していく。シモンは仲間と共に舟をこぎ出し、網を下ろす作業に変わる。魚を捕らえる網は人と人をつなぐネットワーク構築の関係性を示し、二そう目の舟に応援を求め「働き手」の輪が広がっていく。転じて、シモンと仲間が、イエスの弟子としてネットワークを構築していく担い手に変えられていく。岸辺の群衆は、福音を伝えるシモンとその仲間が群衆の中に入っていく事を暗示している。

 今日の聖書の箇書は場面の展開が目まぐるしい。時代の変化が加速化している21世紀の私たちに似ていないか?

 私は、20年以上の両親の介護経験からも、特に「網をおろして」の部分に強く惹かれる。   

1.「網をおろして」は、湖面で網は広がっていく  2004年、老人ホーム入居の前日、デイ・サービスから帰宅した父が失踪した。私は仕事から帰宅後、自宅付近の町田市街を捜索したが見つからず、翌朝、町田署に捜索願いを提出。捜索エリアが拡大され、三日後に三浦半島の城ケ島入口で、無事保護され、ネットワークの網を広げる意味を思い知らされる。

2.「網を下ろしてみなさい」の動詞はギリシャ語原文では、複数形が使われている。シモンの廻りの関係性を示す言葉ともとれる。  父の死後、母の自宅介護について「奥さんも限界に来ています。介護は、自分達で背負いきるのは、無理ですよ、早くお母さんを老人ホームに入れなさい。それが、お母さんと奥さんを解放することになるのです」と警告をいただいた。その助言を受けて、父と同じ老人ホームに入居、昨年末に生涯を閉じるまで。自分の力に頼る解決から他者との関係性から生まれた解決であった。

 9節、シモンと仲間は大量の魚に驚いた。これは主から出た恵みの大きさを表している。結果として、生かされて生きる生き方に変えられた。だから主を恐れたのである。

 さて、2000年から始まったコロナショックによって、「ソ―シャルディスタンス」の状況下になった。教会では手紙、電話、ライブ配信等の工夫しながら現在まで至っている。私たちは、孤立を強いられているように見えるが、キリストにつながれていくことに気付く。私たちの「網」ネットワークは「6節おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」ではなく、緊急事態宣言で「網が張り裂けた」というギリシャ語原文に近い状況を経験することになったのではないか?              

 私たちは、「ソ―シャルディスタンス」のところにいるけれども、「心の距離」を縮め、主を恐れつつ、主エスの「網をおろして」の御言葉によって、主につながれていく網にとらえられ、歩んでいこうではないか。

2022年10月 2日 (日)

ルカによる福音書 16章19~31節 「神の食卓の風景」(世界聖餐日)

 今日は「世界聖餐日」です。「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」です。

 ルカと言行録の教会は、当時のギリシャ・ローマ世界の中にあって比較的経済的に裕福な国際人たちの集まりであり、自分たちの状況に対して「これでいいのか」という問題意識があったと思われます。自分たちは、今日の聖書で言えば「ある金持ち」の立場であり、貧しい人たちとの対比において審かれている存在なのだという自覚があったと思われます。1626節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」という現実を主イエスからの厳しい問いかけとして受け止める姿勢があるのです。自分たちからは決して越えられない「大きな淵」を認めつつ、それでもつながることができないのかという問題意識があるのではないでしょうか。この物語のような死後の世界ではなく、今生きている、金持ちと貧しい人との関係なのだという問題意識があったはずです。ここで描かれているのは、金持ちに対する逃れることのできない審きです。しかし、金持ちであること自体が悪だとはルカは考えてはいないようでもあります。16章の初めの記事に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあることからすれば、富がより良い関係へと整えていくものとなる可能性に対して開いていると言えるのです。

 わたしたちは今日の聖書を読みながら自らを省みると、いやいやいや金持ちの側じゃないよと思いがちだとは思います。しかし1620節以降の「ラザロというできものだらけの貧しい人」という生き方も、ここにいるわたしたちの多くはしてはいないのではないでしょうか。両者を比べれば、少なからず金持ちの側により近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 神の恵みの方向性は、主イエス・キリストにおいて事実として起こされました。このラザロの姿は、ただ単に虐げられた惨めな人間が今や父祖アブラハムのもとで宴会に与っている、ということではありません。ラザロにおいて現わされているのは(イザヤ書53章を参照)、貧しく弱く小さくされ軽蔑されて十字架に至った主イエス・キリストの姿なのではないでしょうか。ラザロとの間にある「大きな淵」とは、わたしたちと主イエス・キリストとの間にある「大きな淵」でもあります。

 今日の聖書から読み返していくならば、主イエスがそうであったようにラザロの友となり仲間となる道につながっていくべき志を整えていくことが、聖餐の方向を定めていくことになるのではないかと考えるのです。「神の食卓の風景」とは、アブラハムの懐に抱かれたラザロの姿として描かれていることからすれば、「大きな淵」を乗り越えていと小さき者である主イエスと共なる、という挑戦的な生き方への招きです。この主イエスからの招きに応えていこうと願うものです。[

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