ルカによる福音書 17章20~21節 「神の国はあなたがたの間に」
人は一人では生きられない、そう言われます。わたしと誰かの間には、複雑なものであれ単純なものであれ、何かしらの関係があります。この人と人との関係にこそ「神の国」があるというのです。わたしたちは、毎日身近なところからもっといろいろな広がりの中で様々な人との関係において生きています。そして、人と人との関係という「間」には、言葉で説明しきれないほどの複雑さがあります。この「間」という関係においてこそ「神の国」として主イエスの思いが実現していくことは、その人のいのちが最も尊ばれ尊重され、かけがえのなさが最大限に受け止められる場でもあるのです。よく使われる言葉として「人権の尊重」という言葉を当てはめてみると分かりやすいかもしれません。
汚れた霊につかれた人は、遺棄され差別され排除され、その人のいのちの価値さえ認められてはいませんでした。社会の邪魔者のようにして扱われていたのです。その人のいのちが条件なしに全面的に認められ受け入れらえている「関係」が「神の国」でなければ、何が「神の国」なのでしょうか。この世で貶められたままの状態を耐え忍び、その上で死んだ後や、あるいは世の終わりにやってくる「神の国」に希望を預けることにどれほどの意味があるのでしょうか。この世におけるいのちを、主イエスが受け入れているのでなければ、「神の国」は空虚なのではないでしょうか。今、生かされてある喜びが、わたしという一人の人間の内側に閉じられたものではなくて、誰かという他者との関わり、その「関係」を育てていくところにこそ現れ、成立しなければ、本当の喜びと呼ぶことはできないのではないでしょうか。
「神の国」とは、福音において展開される具体的な世界観のことです。わたしたちの今のありよう自体が「神の国」と呼ばれる事態へと方向付けがなされるということです。ここでの「間」としての「神の国」の展開は、神の主権に支えられて展開される人権の捉え直しと呼んでもいいのではないでしょうか。人権というと人間の側からの自己主張だと思われるかもしれません。しかし、主イエスにのみ基づく「間」に展開される「神の国」とは、あらゆる人と人との間をより相応しい方向へと導く神の意志として働き続けているのです。
主イエス・キリストは次のように語ることを決してやめない方であることを覚えておきたいのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。この「間」という関係が主イエス・キリストがなさった働きにおいて「神の国」として生まれ、育てられ、絶えず新しい可能性を孕んでいること、そしていついかなる時も希望することが赦されていることを信じたいのです。わたしたちの知恵や能力では計り知ることのできない「間」があるのです。何気ない日常に只中においてすでに主イエスによって働きかけ続けられている「神の国」の導きと支えを信じます。
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