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2022年9月11日 (日)

マタイによる福音書 27章45~56節 「キリスト者はどこから来るのか?」

 51節の後半から53節はマタイによる福音書にしかありません。この箇書は、墓が開かれることによって新しい現実の始まりを表しているように思われます。岩という、かつて考えられていた聖なる価値観が裂かれること、そして地盤が根本的に揺さぶられることによって今、全く新しくされたというイメージです。これは、51節の前半の「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とも共鳴しています。エルサレム神殿には、入り口から入ってすぐのところに、聖所というものがありました。その一番奥には、垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる場所があり、ここは最も聖なる場所であり、大祭司一人だけが入る資格が与えられていました。ですから、神殿の中にある垂れ幕が避けるのを外にいた百人隊長たちが見たというのは当然あり得ないことです。しかし、ここでは事実は問題なのではなくて、ユダヤ教の神殿の至聖所に象徴される当時の世界観の根拠が崩れ落ち、新しい世界観が登場したことを示します。この新しい世界観をもたらしたのが、主イエス・キリスト以外にはありえないというのがマタイによる福音書の理解です

 わたしたちの通常思い描く人生の流れは、死が終着駅です。しかし、そうではありません。5253節に「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるように、マタイの教会に所属している人たちの自己理解が表されています。墓が開かれることによって、かつて眠りについたという死者たちが生き返ったという言葉通りの意味合いを越えて、今生きている者も含めて墓という死の世界からいのちの世界に移されたという信仰の告白となっているのです。

 「キリスト者はどこから来るのか?」という問いへのマタイによる福音書の教会の答えとは、墓が開かれるところからやって来る、ということです。墓というとジメジメして冷たく憂鬱で、明るいイメージから遠いところにあるように思われがちです。しかし、墓は決して暗いものではなく、主イエスの十字架刑→死→墓→復活という出来事に照らされて明るさへと転じていくのです。ここには、主イエスに支えられた明るい力が存在します。

「インマヌエル・神は我々と共におられる」事実に支えられて、この道を歩むことがキリスト者のあり方です。主イエス・キリストが、墓という死の世界からいのちの光の復活の世界への歩みにおいて共におられます。この意味において、キリスト者は復活を踏まえた主イエスの墓から生まれているのです。

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