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2022年9月18日 (日)

創世記 12章1~9節 「人生という旅」(高齢者の日)

 今日はアブラハムの旅立ちについての記事です。出発の場所はカルデアのウルであったとあります。ここから結果的にはカナンに向かう旅が始まるのですが、この時点で目的地は神によって示されていませんでした。12章1節で「「わたしが示す地」とあるだけで、どこに行けとは言われていないのです。しかし、アブラハムは旅立ちます。中継地点のハランにおいてアブラハムは75歳であったとあります。175歳で生涯を終えるまで、それこそドラマティックな旅が続くのです。100年間にわたる旅の始まりです。もちろん実年齢であったとは考えられませんが、おそらく長寿だったのでしょう。

 今日のアブラハムの旅立ちに示される課題は、75歳と相当な年齢になってから、まだ見知らぬ場所へと新しい旅が神に示されるかぎりにおいて始まるのだという可能性です。どんなに歳を重ねていたとしても、いつだって新しい世界に向かって開かれている現実があるのだとの宣言としても読めるのです。歳をとることを前向きに捉える日野原重明戦線のように、あるいは「老人力」の価値観でもいい。歳を重ねていくことに対しては神からの恵みがともなうという信仰理解に立つことが赦されていると信じることができるのです。

 わたしは人のいのちは人間の持ち物ではないという立場をとります。ですから、いのちを生かすことも殺すことも人間がわがままを貫く仕方で自由にしてはならないものだと考えています。十戒の中の「殺してはならない」という教えの積極性は、神の貸し与えたいのちである以上最大限に尊べという命令であり、「生きよ」という促しであると思うのです。この地上でのわたしたち一人ひとりのいのちは、あくまで神に所属します。主イエスが福音書において、様々な弱りのある人たちに向かって寄り添い、生き直しを促し導いたことは神の願う世界観だったのです。あなたはあなたの道を、わたしはわたしの道を、主イエスにあって相応しく歩んでいけばいい、この寿命が尽きるまで。その道はすでに祝福されてしまっているのだから安心していて大丈夫。この信頼のもとで今のいのちに感謝しながら、ともに祈り合い支え合いながら歩む途上に主イエスの祝福がないはずがない、そう信じているのです。日ごとに「今日はよい一日だった」「生きていてよかった」ということに感謝をもって過ごしていけばいい、と思います。同時に大切なのは他者の旅路を邪魔しないこと。

 最終的な行先・目的地さえも告げられないまま押し出された、年老いたアブラハムの旅立ちには、神によって備えられている道、人生という旅に対する祝福の原型のようなものがあります。神の約束と守りのうちに神の名を呼び求めながら歩むところには、平安があるのです。

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