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2022年9月

2022年9月25日 (日)

マタイによる福音書16章13~20節「岩の上に教会を」

 今日の聖書は、しばらくの間わたしにとって躓きでした。マルコとルカではイエスが自分のことを誰だと考えているかという問いに対して、メシア(キリスト)であるという告白をしているだけなのですが、マタイだけが、いわゆる「鍵の権能」と呼ばれるペトロに対して特別扱いをしているとしか読めなかったからです。つまり、後のローマカトリックの教皇制度の聖書的な根拠として扱われてきたのです。19節では「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とあるように、この世と天上の世界との間のつながりに関わる権限がペトロにのみ与えられているのです。ここには、マタイ福音書における二種類の人間の選別の権威が与えられていることになります。天の国に入れるものと入れないものを選り分ける発想がマタイにはあり、その権限が全面的に主イエスからペトロに移されていると読めるからです。18節には「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。ペトロという言葉は、元はペトロスで石を表し、ここでの「岩」はペトラで別の意味合いがあるように読めますが、マタイの意図としてはペトロという石が岩なのだ、と読ませたがっているように思われます。ここで「石」としてのペトロスから、「岩」としてのペトラにされていることには別の意味が示されているように思われます。いくつもの詩編には神を「岩」と表現している箇書が見つかります。たとえば詩編18編32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」詩編62編3節「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」などから分かります。つまり、主イエスの口にペトロが主イエスないしは神に成り代わることへの道を開いてしまっていると言えるからです。

 霊的な問題でも肉体の問題でも構いませんが、地上でのいのちも天の国のいのちでも、ペトロを介してないと意味をなさないのだとでも言いたげです。当時の感覚や、もしかしたら現代の感覚でもあるのかもしれませんが、天の国に入るためにペトロを介することによらなければならいということです。マタイには、二種類の人間を選り分ける発想があります。24章では、終わりの日に関する説教の中で40節と41節では「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」とあります。続く45節以下の小見出しによれば「忠実な僕と悪い僕」があります。さらに続く25章1節からは十人の乙女がいて五人ずつが良い悪いで分けられます。そして、25章31節以下では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。義人と罪人、善人と悪人を選り分ける思想があちらこちらに散りばめられているのです。このような発想は、教会の内側と外側、救われるものと滅ぼされる者、天の国に入れるものと弾き飛ばされる者などに対して明確な線引きを行うことで、強引に、マタイの理解するところの良い側に向かう良い人間へと方向づける暴力的な発想と権力を感じます。

 このような区別ないしは差別的な発想は初代教会に始まります。後のカトリック教会に及ぶものであったことは確かです。現代のカトリック教会も、この発想から完全に自由であるのかについては疑問のあるところです。しかし、宗教改革の問題提起の一つであった教皇制の問題は解決を見たとは思えません。最近のアメリカの教会で使われているかどうかは確かではありませんが、アメリカのローマカトリックがプロテスタントを揶揄するときに牧師のことを「タイニー ポープ」という言葉を使っていたようです。要するに「ちっぽけな教皇」という意味です。ローマカトリックからすれば、ポープたる教皇は世界に冠たる偉大なものであるのに、プロテスタントは小さなお山の対処に過ぎないというのです。もちろん、アメリカのプロテスタントは地味な教会でなければ教会員が何百人どころか何千人規模のところも少なくないはずですが、それでもローマカトリックからすれば、牧師なんかは「タイニー ポープ」に過ぎないということなのでしょう。とは言うものの、このペトロが「岩」である神の代理人のようなあり方は、日本のような教会員が百人に満たない規模の教会でも決して無縁ではありません。

18節をもう一度読んでみます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。このペトロに与えたとされる権威が現代の日本の教会にとって決して無縁ではないことを批判的に検証し、聖書を読み直していく必要を感じています。自覚しているか、していないかを別にして、実際のところ必要以上に「鍵の権能」もしくは、ここから由来する判断などをもとにして牧師自身が立ち振る舞ってはいないかどうかを検証する必要があると思われます。単純に、この人はいい人であの人は悪い人みたいな選り分けをしている牧師は決して少なくないというのが、わたしの印象です。自分たちの立ち位置に反対する立場に対して露骨な悪意をもった振る舞いや発言を見聞きすることは実際のところ少なくないからです。プロテスタントの多くは牧師になるために按手礼という儀式が行われます。手を置くことで任職するものです。日本基督教団の場合は教区総会で行われることが多いです。教憲教規によれば教区総会議長が行うことになっています。コロナ期間は別でしたが、習慣としては、正教師になろうとしている人の頭に議長が手を置き、その方に数人が手を置き、その肩に手を置き…とつながって、その場にいる正教師が一塊になる感じで行われます。神奈川教区の場合は出席正教師が100名弱ほどの出席がありますから、この光景を初めて見る人はギョッとするかもしれません。この儀式が隠れた意味でのサクラメントになっているのではないかと感じたことがあります。洗礼式や聖餐式に与る以上に喜んだ志願者を見て(あれほどの喜び方を洗礼式と聖餐式のたびににしているなら、かろうじて認めてもいい)、鼻白んだ記憶があります。この按手礼が「ペトロの手」であるとして使徒継承だと考える人も少なくないようです。

 このまま、今日のテキストを解釈するだけではマタイによる福音書の二種類の人間を分け隔てることで、一方を救い、もう一方を滅びに至る道へと導くことになってしまいます。18節の「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」との言葉をもう一度捉え返す方向を探ってみたいのです。ヒントとなるのが、18章15節から20節です。読んでみます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この聖書自身にも問題がないわけではありません。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」とあるからです。異邦人や徴税人に対して主イエスが受け入れ祝福した態度とは逆の方向を指した言葉であり、もしかしたらマタイ福音書の差別的な本音が現れているのかもしれません。しかし、ここでの中心は16章で語られたペトロに対しての言葉が18章18節では広がりの中で解釈されていることです。それは次のようにあります。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。つまり、ペトロだけでなく「あなたがたに授ける」と「あなたがた」に対して鍵の権能を与えていると拡大されているからです。鍵の権能はペトロ一人だけに対して閉じられ続けていくものではないということです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあるように、教会の共同性の中で自己検証されることによって修正すべき点は修正されなければならないということです。ペトロは確かに教会の伝統からすれば、使徒の中の使徒、指導者の中の指導者なのかもしれません。しかし、ペトロも限界のある人間であることを忘れてはならないのです。今日の16章13節から20節のテキストは教会の伝統におけるペトロの優越性を語っていることに違いありません。しかし、その後に続く「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ところの主イエスから常に正されていかなければならないのです。ペトロのような存在は古代教会から現代教会、わたしたちの場合は日本基督教団ですが、暴走することが少なくありません。

 神は神であり、人は人であるという原則から外れてはならないのです。教会は神の御心に従うものです。役割分担としての教職や指導者もそうです。ペトロは確かに初代の教会の指導者であったという事実は変えられません。しかし、今日の聖書の箇書の続きの16章22節以下では「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』エスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」このように諫められています。山上での変貌でもペトロの無理解があります。他にも主イエスに対する理解の足りなさはいくつもあります。そもそも逮捕直前に「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、さらには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とさえ言ったにもかかわらず、逃げ出してしまったではありませんか。逮捕後、主イエスのことを「知らない」と言い募り、26章75節には次のようにあります。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 もう一度今日の箇書に戻ります。人としての限界をもつ、このようなペトロに「鍵の権能」を与え、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と主イエスは語りかけているのです。人としての臆病さや卑怯な態度、あるいはおっちょこちょいであることなど、弱さや惨めさを踏まえた上での言葉として受け止め直すことができれば、あのペトロをもって「岩」とし、その上に教会を建てるとの言葉には主イエスの慰めと憐みが染み渡ってくるのではないでしょうか。このようなペトロを思い起こすならば、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、決してペトロ一人に閉ざされたものではないことへと理解が広がってくるのではないでしょうか。「二人または三人」であるところの、わたしもあなたというわたしたちそれぞれが共に、自分であり続けると同時にわたしたちという共同体、つながりとして「岩」となるようにして教会を生きることへと招かれていると信じることができるのではないでしょうか。ここに主イエスからの慰めと憐みを共に与ることのできる幸いがある、このように信じることができるのです。ご一緒に祈りましょう。

祈り

二人または三人としての共同性の中で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、

わたしたちの中で事実として起こされますように。

主イエスに信じ従う群れとして整えられますように。

主イエスの守りのうちにあって、祈り考え、発言し、行動していくことができますように。

共に主イエスの道を歩ませてください。

信じ従う喜びを感謝し、この祈りを主イエス・キリストの御名よってささげます。

                                アーメン。

2022年9月18日 (日)

創世記 12章1~9節 「人生という旅」(高齢者の日)

 今日はアブラハムの旅立ちについての記事です。出発の場所はカルデアのウルであったとあります。ここから結果的にはカナンに向かう旅が始まるのですが、この時点で目的地は神によって示されていませんでした。12章1節で「「わたしが示す地」とあるだけで、どこに行けとは言われていないのです。しかし、アブラハムは旅立ちます。中継地点のハランにおいてアブラハムは75歳であったとあります。175歳で生涯を終えるまで、それこそドラマティックな旅が続くのです。100年間にわたる旅の始まりです。もちろん実年齢であったとは考えられませんが、おそらく長寿だったのでしょう。

 今日のアブラハムの旅立ちに示される課題は、75歳と相当な年齢になってから、まだ見知らぬ場所へと新しい旅が神に示されるかぎりにおいて始まるのだという可能性です。どんなに歳を重ねていたとしても、いつだって新しい世界に向かって開かれている現実があるのだとの宣言としても読めるのです。歳をとることを前向きに捉える日野原重明戦線のように、あるいは「老人力」の価値観でもいい。歳を重ねていくことに対しては神からの恵みがともなうという信仰理解に立つことが赦されていると信じることができるのです。

 わたしは人のいのちは人間の持ち物ではないという立場をとります。ですから、いのちを生かすことも殺すことも人間がわがままを貫く仕方で自由にしてはならないものだと考えています。十戒の中の「殺してはならない」という教えの積極性は、神の貸し与えたいのちである以上最大限に尊べという命令であり、「生きよ」という促しであると思うのです。この地上でのわたしたち一人ひとりのいのちは、あくまで神に所属します。主イエスが福音書において、様々な弱りのある人たちに向かって寄り添い、生き直しを促し導いたことは神の願う世界観だったのです。あなたはあなたの道を、わたしはわたしの道を、主イエスにあって相応しく歩んでいけばいい、この寿命が尽きるまで。その道はすでに祝福されてしまっているのだから安心していて大丈夫。この信頼のもとで今のいのちに感謝しながら、ともに祈り合い支え合いながら歩む途上に主イエスの祝福がないはずがない、そう信じているのです。日ごとに「今日はよい一日だった」「生きていてよかった」ということに感謝をもって過ごしていけばいい、と思います。同時に大切なのは他者の旅路を邪魔しないこと。

 最終的な行先・目的地さえも告げられないまま押し出された、年老いたアブラハムの旅立ちには、神によって備えられている道、人生という旅に対する祝福の原型のようなものがあります。神の約束と守りのうちに神の名を呼び求めながら歩むところには、平安があるのです。

2022年9月11日 (日)

マタイによる福音書 27章45~56節 「キリスト者はどこから来るのか?」

 51節の後半から53節はマタイによる福音書にしかありません。この箇書は、墓が開かれることによって新しい現実の始まりを表しているように思われます。岩という、かつて考えられていた聖なる価値観が裂かれること、そして地盤が根本的に揺さぶられることによって今、全く新しくされたというイメージです。これは、51節の前半の「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とも共鳴しています。エルサレム神殿には、入り口から入ってすぐのところに、聖所というものがありました。その一番奥には、垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる場所があり、ここは最も聖なる場所であり、大祭司一人だけが入る資格が与えられていました。ですから、神殿の中にある垂れ幕が避けるのを外にいた百人隊長たちが見たというのは当然あり得ないことです。しかし、ここでは事実は問題なのではなくて、ユダヤ教の神殿の至聖所に象徴される当時の世界観の根拠が崩れ落ち、新しい世界観が登場したことを示します。この新しい世界観をもたらしたのが、主イエス・キリスト以外にはありえないというのがマタイによる福音書の理解です

 わたしたちの通常思い描く人生の流れは、死が終着駅です。しかし、そうではありません。5253節に「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるように、マタイの教会に所属している人たちの自己理解が表されています。墓が開かれることによって、かつて眠りについたという死者たちが生き返ったという言葉通りの意味合いを越えて、今生きている者も含めて墓という死の世界からいのちの世界に移されたという信仰の告白となっているのです。

 「キリスト者はどこから来るのか?」という問いへのマタイによる福音書の教会の答えとは、墓が開かれるところからやって来る、ということです。墓というとジメジメして冷たく憂鬱で、明るいイメージから遠いところにあるように思われがちです。しかし、墓は決して暗いものではなく、主イエスの十字架刑→死→墓→復活という出来事に照らされて明るさへと転じていくのです。ここには、主イエスに支えられた明るい力が存在します。

「インマヌエル・神は我々と共におられる」事実に支えられて、この道を歩むことがキリスト者のあり方です。主イエス・キリストが、墓という死の世界からいのちの光の復活の世界への歩みにおいて共におられます。この意味において、キリスト者は復活を踏まえた主イエスの墓から生まれているのです。

2022年9月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「神の国はあなたがたの間に」

 人は一人では生きられない、そう言われます。わたしと誰かの間には、複雑なものであれ単純なものであれ、何かしらの関係があります。この人と人との関係にこそ「神の国」があるというのです。わたしたちは、毎日身近なところからもっといろいろな広がりの中で様々な人との関係において生きています。そして、人と人との関係という「間」には、言葉で説明しきれないほどの複雑さがあります。この「間」という関係においてこそ「神の国」として主イエスの思いが実現していくことは、その人のいのちが最も尊ばれ尊重され、かけがえのなさが最大限に受け止められる場でもあるのです。よく使われる言葉として「人権の尊重」という言葉を当てはめてみると分かりやすいかもしれません。

 汚れた霊につかれた人は、遺棄され差別され排除され、その人のいのちの価値さえ認められてはいませんでした。社会の邪魔者のようにして扱われていたのです。その人のいのちが条件なしに全面的に認められ受け入れらえている「関係」が「神の国」でなければ、何が「神の国」なのでしょうか。この世で貶められたままの状態を耐え忍び、その上で死んだ後や、あるいは世の終わりにやってくる「神の国」に希望を預けることにどれほどの意味があるのでしょうか。この世におけるいのちを、主イエスが受け入れているのでなければ、「神の国」は空虚なのではないでしょうか。今、生かされてある喜びが、わたしという一人の人間の内側に閉じられたものではなくて、誰かという他者との関わり、その「関係」を育てていくところにこそ現れ、成立しなければ、本当の喜びと呼ぶことはできないのではないでしょうか。

 「神の国」とは、福音において展開される具体的な世界観のことです。わたしたちの今のありよう自体が「神の国」と呼ばれる事態へと方向付けがなされるということです。ここでの「間」としての「神の国」の展開は、神の主権に支えられて展開される人権の捉え直しと呼んでもいいのではないでしょうか。人権というと人間の側からの自己主張だと思われるかもしれません。しかし、主イエスにのみ基づく「間」に展開される「神の国」とは、あらゆる人と人との間をより相応しい方向へと導く神の意志として働き続けているのです。

 主イエス・キリストは次のように語ることを決してやめない方であることを覚えておきたいのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。この「間」という関係が主イエス・キリストがなさった働きにおいて「神の国」として生まれ、育てられ、絶えず新しい可能性を孕んでいること、そしていついかなる時も希望することが赦されていることを信じたいのです。わたしたちの知恵や能力では計り知ることのできない「間」があるのです。何気ない日常に只中においてすでに主イエスによって働きかけ続けられている「神の国」の導きと支えを信じます。

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