ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」
「現在の苦しみ」「虚無」の時代の只中にあって、「希望」することはできるのでしょうか。そもそも人間には「希望」する能力も実力もゼロなのではないかと思われます。では、その「希望」はどこからやってくるのでしょうか。ローマの信徒への手紙8章24節の「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」との言葉をどのように理解したらいいのでしょうか。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること」「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。この「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望」む姿勢とは、今日の箇書の前にある8章15節以下で語られています。【あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。】と。「キリストと共に苦しむ」あり方として「アッバ、父よ」と呼びかけることが赦されていることから導かれるのではないでしょうか。24節に「現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」とあるように、「希望」はすぐ傍にいるけれども見ることはできない主イエスにのみにあります。「アッバ、父よ」という呼びかけは、主イエスご自身の祈りで呼びかけた時の言葉でもあります。詩編50:15の次の言葉を知っていたからなのでしょう「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」、主イエスは逮捕され十字架へと至る直前に、すなわち「苦難の日」にゲッセマネの園で次のように祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)。直接触れることも見ることもできないけれども、すぐ傍に神が確実にいること。それゆえに、深く圧し掛かる「絶望」の中で、それでも「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りが赦さていることにおいて救われているのです。
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