ヨハネの手紙一 4章7~21節 「愛について」
神の愛のゆえに人が愛し合うということは、神が主イエス・キリストにおいて起こされた愛を根拠とします。主イエス・キリストが、わたしたちと変わらない人として来られたこと、この主イエスが讃美歌21の280番の『馬槽のなかに』で歌いあげられているような歩みをしたこと、他者のために身代わりとして苦しみの道を歩み、十字架に磔られて殺されたこと、三日目によみがえられたこと、天に昇られたこと。これら主イエスの生涯において明らかにされた愛の事実に序列があったとは考えられません。現代日本のキリスト教の多数派は、贖罪の十字架が高尚で最高で無償の愛(アガペー)で、他はそれよりも下位の愛であると解釈しますが、下積み生活を強いられた人たちと車座になり、パンを分かち合い、ぶどう酒を酌み交わした愛が、あるいは、様々な弱りを覚えている人たちの今のつらさや苦しみに寄り添う愛が一段も二段も下で価値の低い愛なのでしょうか。少なくとも、わたしには愛における序列や上下の価値観は認められません。
愛することとは、人と人との関係が上下関係や力関係、利害関係などによらない、対等とか水平と呼ぶべき関係を築きながらなされることです。愛することとは、観念や自分の心の状態や気持ちの問題に留まりません。愛とは、あくまでも今の現実に対する具体的な行動であり判断であり価値基準の設定なのです。いつだって誰か他の人・他者との関係に関する事柄となるのです。わたしとあなたが対面しているときには、その間には「関係」という手に取って推し量ることはできないけれども、人が人として生きるための基本的なあり方が存在するのです。この関係をいつも忘れないようにして生きていくことが愛することの具体化には必ず求められることなのです。
愛に生きるとは、今この時に主イエスの思いに適った人間関係を育て続けていくことに他なりません。愛を、アガペーとかフィリアとか、あるいはエロースなどと区別することに大きな意味はありません。主イエスが用意してくださっている道には愛が働いていることを信じていけばいいのです。わたしたち自身の中には、愛する根拠も能力も全くありません。主イエス・キリストの憐みに基づいてのみ働かれるところの愛が起こされているのです。
ウクライナやアフガニスタンなど各地の状況、あるいは国内での悲しい事件などを思うと心がくじけそうになりますが、それでも神の愛は主イエス・キリストからやって来て、わたしたちの日常における様々な人たちとの具体的な関係の中で起こされ、そして育てられていくのです。神の愛の力は、人の愛として働くように今日も導いてくださっていることを信じて歩んでいきましょう。それは神から与えられた幸いです。人は神の愛によって生きるように導かれているのですから。
« フィリピの信徒への手紙 3章12~16節 「到達したところに基づいて進む」 加藤真規子 | トップページ | ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」 »
「ヨハネの手紙一」カテゴリの記事
- ヨハネの手紙一 4章7~21節 「愛について」(2022.08.21)
- ヨハネの手紙一 1章1~4節 「永遠の生命-使徒信条講解24」(2019.11.17)
- ヨハネの手紙一 5章13~21節 「偶像を避けなさい」(2018.09.23)
- ヨハネの手紙一 5章1~12節 「イエスから流れ来る<いのち>」(2018.09.09)
- ヨハネの手紙一 4章7~21節 「神は愛」(2018.09.02)
« フィリピの信徒への手紙 3章12~16節 「到達したところに基づいて進む」 加藤真規子 | トップページ | ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」 »
コメント