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2022年8月

2022年8月28日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」

 「現在の苦しみ」「虚無」の時代の只中にあって、「希望」することはできるのでしょうか。そもそも人間には「希望」する能力も実力もゼロなのではないかと思われます。では、その「希望」はどこからやってくるのでしょうか。ローマの信徒への手紙8章24節の「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」との言葉をどのように理解したらいいのでしょうか。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること」「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。この「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望」む姿勢とは、今日の箇書の前にある8章15節以下で語られています。【あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。】と。「キリストと共に苦しむ」あり方として「アッバ、父よ」と呼びかけることが赦されていることから導かれるのではないでしょうか。24節に「現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」とあるように、「希望」はすぐ傍にいるけれども見ることはできない主イエスにのみにあります。「アッバ、父よ」という呼びかけは、主イエスご自身の祈りで呼びかけた時の言葉でもあります。詩編50:15の次の言葉を知っていたからなのでしょう「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」、主イエスは逮捕され十字架へと至る直前に、すなわち「苦難の日」にゲッセマネの園で次のように祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)。直接触れることも見ることもできないけれども、すぐ傍に神が確実にいること。それゆえに、深く圧し掛かる「絶望」の中で、それでも「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りが赦さていることにおいて救われているのです。

2022年8月21日 (日)

ヨハネの手紙一 4章7~21節 「愛について」

 神の愛のゆえに人が愛し合うということは、神が主イエス・キリストにおいて起こされた愛を根拠とします。主イエス・キリストが、わたしたちと変わらない人として来られたこと、この主イエスが讃美歌21の280番の『馬槽のなかに』で歌いあげられているような歩みをしたこと、他者のために身代わりとして苦しみの道を歩み、十字架に磔られて殺されたこと、三日目によみがえられたこと、天に昇られたこと。これら主イエスの生涯において明らかにされた愛の事実に序列があったとは考えられません。現代日本のキリスト教の多数派は、贖罪の十字架が高尚で最高で無償の愛(アガペー)で、他はそれよりも下位の愛であると解釈しますが、下積み生活を強いられた人たちと車座になり、パンを分かち合い、ぶどう酒を酌み交わした愛が、あるいは、様々な弱りを覚えている人たちの今のつらさや苦しみに寄り添う愛が一段も二段も下で価値の低い愛なのでしょうか。少なくとも、わたしには愛における序列や上下の価値観は認められません。

 愛することとは、人と人との関係が上下関係や力関係、利害関係などによらない、対等とか水平と呼ぶべき関係を築きながらなされることです。愛することとは、観念や自分の心の状態や気持ちの問題に留まりません。愛とは、あくまでも今の現実に対する具体的な行動であり判断であり価値基準の設定なのです。いつだって誰か他の人・他者との関係に関する事柄となるのです。わたしとあなたが対面しているときには、その間には「関係」という手に取って推し量ることはできないけれども、人が人として生きるための基本的なあり方が存在するのです。この関係をいつも忘れないようにして生きていくことが愛することの具体化には必ず求められることなのです。

 愛に生きるとは、今この時に主イエスの思いに適った人間関係を育て続けていくことに他なりません。愛を、アガペーとかフィリアとか、あるいはエロースなどと区別することに大きな意味はありません。主イエスが用意してくださっている道には愛が働いていることを信じていけばいいのです。わたしたち自身の中には、愛する根拠も能力も全くありません。主イエス・キリストの憐みに基づいてのみ働かれるところの愛が起こされているのです。

 ウクライナやアフガニスタンなど各地の状況、あるいは国内での悲しい事件などを思うと心がくじけそうになりますが、それでも神の愛は主イエス・キリストからやって来て、わたしたちの日常における様々な人たちとの具体的な関係の中で起こされ、そして育てられていくのです。神の愛の力は、人の愛として働くように今日も導いてくださっていることを信じて歩んでいきましょう。それは神から与えられた幸いです。人は神の愛によって生きるように導かれているのですから。

2022年8月14日 (日)

フィリピの信徒への手紙 3章12~16節 「到達したところに基づいて進む」 加藤真規子

 パウロはフィリピの信徒への手紙(以下フィリピ書)316で言います。「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」と。私はこの言葉に勇気をいただき、フィリピ書から学ばせていただきました。フィリピ書を選んだのは、この手紙が短くて余り抵抗がないことでした。しかし、今回よく読み返してみると、親しみやすく、励ましや教えを受ける聖句がたくさんありました。またパウロの人柄や信仰に触れることができ、信仰とは何かについても学ぶことの多いすばらしいものでした。この手紙を獄中で書いているとパウロは言います。そしてそのことをも福音の前進に役立ったと喜んでいるのです。回心したパウロにとって、キリストが崇められることが切なる願いなのです。

 手紙を受け取ったフィリピの信徒について使徒言行録1611から見てみます。パウロはシリアのアンティオキアから現在のトルコの内陸を通ってトロアスに行き、そこから船でマケドニアのネアポリスに着き、さらに内陸に入ったフィリピに至ったとあります。

 フィリピの川のほとりに行くと、女性達がいて、その一人リディアが信仰を受け入れます。彼女の家族もバプテスマを受けました。誤解によって投獄されてしまうパウロでしたが、その獄の看守と家族も信仰者となったのです。フィリピ書を読みますと、その後信者も多くなり、物心両面でパウロを支えるような自立した教会になったことが分かります。

 フィリピ書269には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」とあり、キリスト賛歌とでも言うべきすごい信仰告白です。

 猛烈な伝道者パウロですが、テモテとエパフロディトや他の信徒への思いは、人間愛に満ち、心優しく思いやりにあふれた言葉が語られていてホッとします。また234「…へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と人間関係をスムーズにする思いを語ります。

 頑張って走りぬいているようにみえるパウロが、「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」と勧めてくれていることに、大きな慰めを受けました。これからも神さまのお導きの中でゆっくり進みたいと願っています。

2022年8月 7日 (日)

ローマの信徒への手紙 15章13節 「戦争のない世界を望む」

 わたしたちは、より弱くされ、苦しみが強いられ、屈辱的な場にいる人たちに対する共鳴や共感を持つことができているでしょうか。お金や権力や社会的地位などいわゆる「強さ」に象徴されるあり方を良しとする価値観がわたしたちの身体に染み込み、生育環境や教育によるいのちの上下、優劣を無自覚にうけいれてしまっているのではないでしょうか。今生かされている他者への理解のなさは、戦争を無条件に否定することを困難にします。

 このいのちへの共感と共鳴について、昨日の広島「原爆の日」の平和式典で小学生たちによって練り込まれた平和への誓いで語られていました。【……今この瞬間も、日常を奪われている人たちが世界にはいます。戦争は、昔のことではないのです。自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは、強さとは言えません。本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心をもち、相手を理解しようとすることです。本当の強さをもてば、戦争は起こらないはずです。過去に起こったことを変えることはできません。しかし、未来は創ることができます。悲しみを受け止め、立ち上がった被爆者は、私たちのために、平和な広島を創ってくれました。今度は私たちの番です。被爆者の声を聞き、思いを想像すること。その思いをたくさんの人に伝えること。そして、自分も周りの人も大切にし、互いに助け合うこと。世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは、行動していくことを誓います。】ここで言われている「本当の強さ」を支えるのは、想像力、そして他者に対する共感と共鳴だと思います。わたしたちが生まれ育ち、教育されてきた(より正確には「飼育」されてきた)「強さ」という価値観とは相反する「強さ」です。

 そこで必要とされるのは、人間が平和へと歩む方向付けなのではないかと考えます。沖縄県糸満市の「沖縄県平和祈念資料館」の展示室の出口に掲げられている「むすびの言葉」には【戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち 人間 ではないでしょうか 】とあります。同じ人間でありながら、戦争を行うことと行わないことの違いは、先ほどの小学生たちによって作成された言葉から言えば「本当の強さ」だろうと思うのです。

 今日、わたしたちは次のような聖書の言葉によって支えられています。すなわち、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と。絶望の時代状況の中にあっても、あえて希望する信仰が、聖霊の働きによって支えられるのです。この聖霊は、偽りの「強さ」を退ける力です。「弱さ」ゆえにこそ、まことの「強さ」へと導く力そのもののことです。この根拠であるところの復活の主イエス・キリストの生前の立ち居振る舞いに真似びながら歩むところに、「戦争のない世界を望む」道は開けるのです。

 

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