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2022年7月17日 (日)

ルカによる福音書 12章22~34節 「思い悩むな」

 忌み嫌われた「烏」と、捨てられ燃やされてしまう「野原の花=雑草」としての男たちと女たちの今を、主イエスは見つめています。主イエスが「思い悩むな」と呼びかけつつ指し示されているのは、主イエスの周りに集まっている下積みを余儀なくされた人々の現実です。強いられている「思い悩み」から方向転換し、生き方や考え方を修正することを促しているのです。あなたたちの今の現実は、「烏」のように嫌われ、疎んぜられ、雑草のように価値がないものとされ、踏みつけにされ、捨てられているかもしれない。そのような、日々の暮らしの慌ただしさに溺れてしまうようにしてあなたたちは自分を見失ってしまっていないか。しかし、「烏」や「雑草」が、あるがままに、今輝いている現実、その満ち満ちたいのちを考えて見なさい、と。その、社会から軽んじられている生命が、すでに祝福されてしまっているという事実に注目することによって「思い悩み」を打ち砕くのが、今日の主の言葉です。あの栄華を極めたソロモンなんぞとは比べ物にならないほど、あなたたちの生命は尊いのだとして、です。

 主イエスの慈しみがここにはあります。この生命への立ち帰りの言葉が、「思い悩むな」ということなのです。「烏」や「野原の花」として侮蔑されている被差別者に向けられた、全面的ないのちの肯定です。このことにわたしたちは慰められます。しかし一方で、侮蔑的な言葉、いわば、「ヘイトスピーチ」を少数者に向かって投げかける多数者の側にいることも自覚する必要があることに気づかされるのです。わたしたちはヘイトスピーチを直接することはないかもしれません。しかし、それを止めることをしていない、ということにおいて加担しているのです。このことを自覚することはなかなか難しいものです。

 聖書における主イエスの言葉は、「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」語られているかに注目する必要がありますが、「思い悩むな」は、この5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)を自分事の中で整理して、強いられた座標軸を少しずらしてみよ、という促しであり、同時に招きの言葉でもあるのです。侮蔑の言葉を語ることで自らの正しさにあることにしがみ付き、他者を排除することでしか自分を確証できないような状態から自由にならなければならないのです。主イエスの「烏」と「野原の花」の祝福を少数者と共に与るためには、別の道を選ばなくてはならないのです。侮蔑する多数派の側の立場を自ら暴き出しながら悔い改めていかねければならないのです。「痛みを抱えている仲間の側から見たことあるのか」「仲間として、あるいは一番小さくされている弱い立場に置いてきぼりにされているその人たちの側から見たことあるのか」という本田哲郎神父の読み方に共鳴します。そのうえで、主イエスの道に連なる道を模索しながら歩んでいきたいのです。

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