ヨハネによる福音書 16章25~33節 「キリストの勇気に与って」
わたしたちは、生かされた存在としてのいのちはあくまで「この世」と呼ばれる現在進行形の「今」という時から決して自由になることはできません。現実の「この世」のことは、どうでもいいとしてしまう信仰のあり方は、コリント教会においてパウロを敵と見做した人たちの勢力の信仰理解と深く共鳴しています。「この世」的な日常を生きる生活人であることをやめてしまって、心であるとか内面、精神性だけを天国に向けて現実逃避することに他なりません。天国的な信仰の醜さがここにはあります。堅実なキリスト者は、このような傾向を否定します。「あなたがたには世で苦難がある。」という現実を主イエスにあって自ら引き受けていくのです。あくまで「この世」でのいのちのあり方を見失うことがないのです。
「世」とは、今生きている身近なところから地球規模の世界全般を示します。この情報社会にあっては日常生活の身近なところから国際関係に至るまで、古代と比べものにならないくらい多様な圧迫・艱難・苦難・苦しみ・悩みなどがいのちに対して強い力で襲いかかってきます。今、生かされてあることにまつわる一切予測不可能な未来への不安が横たわっているのだということです。あの、見渡せば砂漠や岩場など枯れた大地の中で渇きや飢えに対する危険にも増してです。古代に比べて「あなたがたには世で苦難がある」現実は強められ深められていると言えるかもしれません。わたしたちの暮らす現代社会とは決して大げさではなく、危険に満ち満ちているのです。しかし、主イエスの言葉は時代を越えてこのような意味での「苦難がある」現実に対して「しかし、勇気を出しなさい」と語り続けているのです。
勇気や元気は、自分の力や能力などを頼りにすることではなく、あくまで主イエス・キリストの側からによってのみ生まれるのだということです。詩編23によれば「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」ということであり、ヨハネによる福音書10章に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」とあるとおりに、です。
主イエス・キリストが「勇気を出しなさい」と語りかけているのは、その「勇気」のもとを自分こそが授けるのであるという決意の表れです。「勇気」や「元気」が生まれるのは、わたしたちからではなく、主イエス・キリストの側からの行いによるものなのです。この主イエス・キリストからの招きと促しを知るものは「勇気」と「元気」に与る生き方へと導かれるのです。
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