コリントの信徒への手紙一 1章18~31節 「十字架の言葉」
十字架刑は、ユダヤ人にとっても異邦人であるローマ人にとっても受け入れがたい、おぞましいものでした。十字架は決して美しいものではありません。日曜の朝から不快な言葉を並べ、申し訳ありませんが、血の匂いや糞尿などにまみれ、悪臭漂い、無残なものです。人をこれまでかと言うほど、そのいのちを侮辱しつつ殺していく死刑の方法であったのです。ローマの考え方からすれば反逆者、政治犯、奴隷の処刑であり、ユダヤ教では木に架けられた死体は神に呪われたものです。
この、主イエス・キリストの十字架の出来事はキリスト教信仰にとっての試金石です。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。
主イエスを信じ、従う者とは、この十字架の事実・出来事に打たれたものを指します。十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による主イエスの死によって、わたしたちはいのちへと呼び覚まされ、生きるべき道が備えられていることを知らされるのです。
弱いけれども強いと述べるパウロは、順風満帆に地中海沿岸を旅しながらキリスト教を宣教したのではありません。持病を抱え様々な艱難の連続だったのです。弱いけれども強いという支えと導きを、あの十字架によって知らされていたのです。わたしたちもパウロと同様に確かに弱いのです。具体的な体の病や痛みをもち、人間関係や生活のことで頭を悩ませ苦しんでいる日常です。しかし、十字架の主イエスに信じ従うことは、わたしたちの日毎に圧し掛かる苦しみの中にあって、主イエスの十字架の苦しみのゆえに、自らの重荷を負いつつも生き抜く祝福を信じているのです。あえて勇気と希望のもとに、です。その力が、十字架の主イエスによって、わたしたち一人ひとりに、すでに備えられているのです。このことを信じることができるようにと赦され、招かれているのです。
十字架における主イエス・キリストは、「世の無学な者」「世の無力な者」を選ぶことによって、わたしたちのまことの友となるようにして寄り添い続けているのです。知恵もなく、力や財力もないからこそ、わたしたちは選ばれたのです。仮に資産や能力に恵まれた人であるなら、それを誇りにしない、そこに依り頼まず、それを手放すことも恐れないでいられる身軽さ、たとえ大きなものをもっているように思えても、それは神から見れば無きに等しいものだと気づくことが与えられています。わたしたちに向かって、様々な仕方であらゆる悪しき「知恵」を相対化する視座を与えるようにして、主イエスは傍らに父続けてくださっています。この主イエスにある道へと立ち返りつつ歩んでいく決意を新たにしたいと願うものです。
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