創世記 1章31節 「いのち」
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とは、神によって創り出されたとしか言いようのない事態を示します。この、いのちの事態そのものが奇跡としか言いようのない現実として日ごとにあるということです。このいのちにおいて一人ひとりの人間は全く平等なのです。どんなに「極悪人」とされていても、そのいのちにおいては誰彼が制限を与えたり、奪ったりすることは赦されてはいないのです。「極めて良」い事態を創り出したのは人間ではなく、あくまで神なのです。この神の側からの創造と、その結果に対する、あらゆるいのちの全面的無条件の肯定を事実として受け止めることから始めるべきなのではないでしょうか。
わたしたちは、わたしたちのいのち、寿命をどうすることもできません。わたしたちにできることは、この貸し与えられているいのちを感謝のもとで受け止める生き方を前進させていくことです。このことはただ単に、わたしという一人の人間の心の中という内面性に閉じこもることではありません。いのちにおいては、貧富の差や能力の差、善人であるとか悪人であるとかが問われないということです。このいのちは、神が貸し与えてから取り去られるまでの間という、いわば「寿命」が尽きるまで精一杯生き抜くところに意義があります。時として、生きている意味が分からなくなることもあるでしょうし、迷いが生じることも少なくないかもしれません。しかし、神の意志によってわたしたちの命が今、ここにあることには神の側から意義や意味が与えられていると信じることはできるのです。
ただ神だけが知る時に至るまで、わたしたちはこの世において貸し与えられたいのちに与っています。このことは、わたしに貸し与えられたいのちに生きることとは、誰かと共に生き、お互いのいのちを認め合い、喜び合うことと別のことではありません。ですから、この世における愛する者、親しい者のいのちが神のもとへ帰る時には、残された一人ひとりは言いようのない悲嘆や悲しみに襲われるのです。わたしたちのいのちは、創造者である神によってそれぞれ貸し与えられているだけではなくて、結ばれていくことも願われているのです。やがてわたしもこの世から神のもとに帰る日が来ることは確かなのですが、その時に至るまでの主イエス・キリストの神の支えにあって、お互いのいのちを喜び合う歩みを続けたいと願っています。
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