使徒言行録 4章13~22節 「神の前での正しさを求めて」
4章13節によれば「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。「無学な普通の人」として、です。学者のように律法の知識を蓄えていたわけではなかったでしょう。学があり、律法の知識に長けていたのであれば、波風を立てることなく、その社会の中で適応した従順な態度や振る舞いによって時代の要求する期待された人間像に相応しく振舞っていさえすればよかったはずです。規格化された人間として飼い慣らされた生き方をしていればよかったのです。しかし、死者の中からよみがえった主イエスの聖霊の力によって、飼い慣らされて従順になるのではなくて、自由への招きに与ってしまっているのです。
その時々の時代の要求する従順から、不従順によって生きる可能性をペトロとヨハネの態度から読み取ることができます。当時のユダヤ教権力に対して従順であることは、他から与えられた意思に屈服した生き方を選ぶことです。その屈服した生き方が身体に、そして普段の生活にまで染み込んでしまい、空気のように当たり前のことになってしまっているという不幸があるのです。ここからの解放をペトロとヨハネは身をもって、あえて権力への不従順として、イエス・キリストを証しているのです。「無学な普通の人」は決してマイナスばかりのことではありません。無学であるからこそ自由を受け入れる余地があり、イエス・キリストの復活、そしてその聖霊の働きに身を委ねることができるようにされたのです。
19節では「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」とあります。このセリフは珍しいものではなくて、ペトロとヨハネのオリジナルのものでもなかったでしょう。わたしたちが受け取るべきは、死者の中から復活した主イエスの聖霊の働きによって導かれるものです。これは、ペトロとヨハネの宣教活動が生前の主イエスの活動をお手本にしながらなぞっている物語の構成からも理解できることです。
わたしたちに求められているのは「無学な普通の人」に留まることです。情報過多なこの社会にあって翻弄されず、聖霊の働きを受け入れるだけの余白を持ち、「神の前に正しいかどうか、考え」ることに他なりません。イエス・キリストにおける聖霊の働きに身を委ねることによって決断、言葉、振る舞いが方向づけられるのです。今を歴史的責任のもとで歩むべき「神の前に正しい」道が開かれていくことを確認したいと願っています。この聖霊の主イエス信じることに絶えず立ち返りながら、わたしたちは自らのあり方を省み、より神の前に正しいかどうかを自己吟味する道へと招かれているのです。
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