使徒言行録 2章1~11節 「自分の言葉が生まれる時」
今日の聖書は、聖霊に満たされた弟子たちが突然に各国の言葉で神について語り始めたという有名な記事です。読みながら、言葉にまつわる日常のもどかしさを感じました。わたしが接するほとんどの人は日本語が母語であると思いますが、その日本語である言葉が通じないという経験のあることを思うからです。家族や友人など親しい者同士であっても、同じ信仰に立っているとしても、です。発した言葉がその意図通りに相手に届くとは限らない、ということです。
また、社会全体として、これまで以上に言葉を発する力も聞く力も衰えてきているようにも思われます。とりわけ、国際間において様々な場で侵略行為などがなされている現状にあっては尚更です。井上ひさしは言葉の力を信じていたのでしょう。2006年7月に出版された『子どもにつたえる日本国憲法』の中で9条1項を以下のように「翻訳」しています。「(略)けれども私たちは/人間としての勇気をふるいおこして/この国がつづくかぎり/その立場を捨てることにした/どんなもめごとも/筋道をたどってよく考えて/ことばのちからをつくせば/かならずしずまると信じるからである/よく考えぬかれたことばこそ/私たちのほんとうの力なのだ」。ここには聖霊降臨の力によって、言葉が通じる道筋があるはずだとの課題が示されていると思えるのです。
一番伝えたい大切な言葉とは、理路整然とした説得的な理論に基づいたものであるとは限りません。語る人の中での理論や理屈、ものの考えの正しさだけでは十分ではないのです。同じ言葉を語っていても、そこに込められた意味が同じだとは限らないからです。
わたしたちは言葉の氾濫した時代の中で、言葉自身のもっている正直さとか本音、真心とかが伝わることを信じられなくなっています。言葉の力を信じられなくなっているのかもしれません。しかし、通じる言葉があり、それを聖霊の働きによって信じることができるのだと思い起こさせようとして使徒言行録2章1節からの物語は語りかけているのではないでしょうか。心の奥底からの今一番大切で正直な言葉は、たどたどしく不器用であっても、また理路整然とした論理体系がなくても信じるに足りる言葉なのです。だから、ここに希望を託し、諦めてはならないとでも言いたげです。わたしたちの語る言葉が開かれていくことを信じてみないかという呼びかけが聞こえてくるのです。
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