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2022年6月

2022年6月26日 (日)

使徒言行録 5章1~11節 「神を欺かないために」

 わたしたちは、教会はイエス・キリストの神を信じているがゆえに純粋で間違ったことなどするはずがないという幻想を抱いてしまうことがしばしばあります。しかし、この世で起こる犯罪をも含めた人間のあらゆるエゴイズムはどんなことであっても教会の中で起こり得るのです。むしろ、人間の罪深さや愚かさがあからさまに生のまま表れてしまう場が教会なのかもしれません。土地を売ったお金の一部を手元に残したのに全部献金したと嘘をついたアナニアとサフィラが突然死したという物語はこのことを表しているともいえるのでしょう。

 教会には様々な人間のエゴイズムが形を変えながら存在します。アナニアとサフィラの偽りの献金は氷山の一角です。表面に出ることなく燻っていることも少なくないと思われます。それら一つひとつに対して「聖霊」の導きを祈りつつ歩むほかありません。限界ある人間の集まりとしての教会を絶えず「聖霊」の計らいに委ねながらも自己吟味し続けることを止めないことです。主イエスの憐みに包まれていることへの信頼抜きには教会の歩みは不可能です。様々なエゴイズムが満ちているからこそ教会なのかもしれません。使徒言行録は、先ほど指摘したようにアナニアとサフィラを描くことで「教会」の現実を明らかにしているのです。

 しかし、教会が下世話な問題の只中にあったとしても、「聖霊」に支えられた正直さが大切なのだというのが今日のテーマの中心であろうと思われます。この点を外さなければ様々な問題があったとしても、「神を欺く」ことがないのです。自らの言葉や振る舞いを正していくことができるのです。さらには、教会の中での対話の方向も開けてくるのだということです。わたしたち自身はアナニアとサフィラのように露骨な偽りはしていないでしょう。しかし、わざわざ「教会」とはこういう現実から自由ではないのだと使徒言行録が証言している以上、わたしたちにとって彼らのことを他人事として読むことも間違っているでしょう。肝心なことは、彼らの現実とは形が違っていても似ている点があることを認めていくことです。そのうえで「聖霊」に支えられた正直さを求め、祈りつつ歩むことの他ないのだと認めること、ここに「神を欺かない」道が示されるのではないでしょうか。わたしたちのあらゆる欺瞞を受け止めつつも、より正しい道へと導く「聖霊」の働きを求めていきましょう。

2022年6月19日 (日)

使徒言行録 4章13~22節 「神の前での正しさを求めて」

 4章13節によれば「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。「無学な普通の人」として、です。学者のように律法の知識を蓄えていたわけではなかったでしょう。学があり、律法の知識に長けていたのであれば、波風を立てることなく、その社会の中で適応した従順な態度や振る舞いによって時代の要求する期待された人間像に相応しく振舞っていさえすればよかったはずです。規格化された人間として飼い慣らされた生き方をしていればよかったのです。しかし、死者の中からよみがえった主イエスの聖霊の力によって、飼い慣らされて従順になるのではなくて、自由への招きに与ってしまっているのです。

 その時々の時代の要求する従順から、不従順によって生きる可能性をペトロとヨハネの態度から読み取ることができます。当時のユダヤ教権力に対して従順であることは、他から与えられた意思に屈服した生き方を選ぶことです。その屈服した生き方が身体に、そして普段の生活にまで染み込んでしまい、空気のように当たり前のことになってしまっているという不幸があるのです。ここからの解放をペトロとヨハネは身をもって、あえて権力への不従順として、イエス・キリストを証しているのです。「無学な普通の人」は決してマイナスばかりのことではありません。無学であるからこそ自由を受け入れる余地があり、イエス・キリストの復活、そしてその聖霊の働きに身を委ねることができるようにされたのです。

 19節では「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」とあります。このセリフは珍しいものではなくて、ペトロとヨハネのオリジナルのものでもなかったでしょう。わたしたちが受け取るべきは、死者の中から復活した主イエスの聖霊の働きによって導かれるものです。これは、ペトロとヨハネの宣教活動が生前の主イエスの活動をお手本にしながらなぞっている物語の構成からも理解できることです。

 わたしたちに求められているのは「無学な普通の人」に留まることです。情報過多なこの社会にあって翻弄されず、聖霊の働きを受け入れるだけの余白を持ち、「神の前に正しいかどうか、考え」ることに他なりません。イエス・キリストにおける聖霊の働きに身を委ねることによって決断、言葉、振る舞いが方向づけられるのです。今を歴史的責任のもとで歩むべき「神の前に正しい」道が開かれていくことを確認したいと願っています。この聖霊の主イエス信じることに絶えず立ち返りながら、わたしたちは自らのあり方を省み、より神の前に正しいかどうかを自己吟味する道へと招かれているのです。

2022年6月12日 (日)

ルカによる福音書 12章10~12節 「信仰を言い表す」

~子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスの活動は、ガリラヤ地方からユダヤ教の中心の街であるエルサレムに移ってきました。ある晩、弟子たちと一緒にいるところに、主イエスを邪魔者だと思っていた人たちに連れられた兵隊たちがやってきて、主イエスは逮捕されてしまいます。その時に、あれほどどんなことがあってもイエスさまについていくと言っていたペトロは怖くて逃げ出してしまったのです。そして、主イエスが逮捕されて、裁判を受け、十字架で殺されていくのを遠くから見ることしかできませんでした。その時に色んな人たちから、「お前はあのイエスという人の仲間ではないのか」と聞かれます。ペトロは自分も捕まってしまうのではないかと不安で、「そんな人は知らない」と3回も答えてしまったのです。

 主イエスは十字架で殺されてから3日目に生き返りました。この復活の主イエスは逃げ出してしまった弟子たちを赦し、聖霊の力によって励まし勇気を与えるのです。ペトロは、主イエスと一緒にいることができなかったこと、逃げ出してしまったことが恥ずかしくて悲しくて仕方がなかったのですが、こんなひどい自分を主イエスが赦してくださったということに驚き、そして嬉しさに溢れます。復活の主イエスから新しく生きていくことができる力をいただいたのです。この力によって、心の底から「信仰を言い表す」ことができるようにされたのです。「イエスさま大好き」という言葉がはじめて本当にされていったのです。「イエスさまが大好き」なのは、主イエスの復活の力の赦しにあることが知らされたのです。このことによってペトロは、主イエスの仲間であることを怖がったり脅えたりすることをしなくなりました。「イエスさま大好き」という、とても明るい心や気持ちで生きることができるようになったのです。主イエスを邪魔者だと思うような人たちにいじめられたって本当に怖いことではない、と分かったからです。何があっても、どんなことが起こっても復活の主イエスのお守りがあるから大丈夫だと知らされたからです。

 困ったことや辛いこと、悩みや悲しいことがあっても、主イエスの力に導かれて自分の言葉で言い表すことができるようにされたのです。今日の聖書には、このように書かれています。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」どんな時でも、イエスさまは目に見えなくても聖霊として一緒にいてくださるのだから大丈夫、わたしたちの語るべき、そして聖霊の働きが言葉を作り出し、導き、支えてくださることを知っていれば大丈夫なのです。

2022年6月 5日 (日)

使徒言行録  2章1~11節 「自分の言葉が生まれる時」

 今日の聖書は、聖霊に満たされた弟子たちが突然に各国の言葉で神について語り始めたという有名な記事です。読みながら、言葉にまつわる日常のもどかしさを感じました。わたしが接するほとんどの人は日本語が母語であると思いますが、その日本語である言葉が通じないという経験のあることを思うからです。家族や友人など親しい者同士であっても、同じ信仰に立っているとしても、です。発した言葉がその意図通りに相手に届くとは限らない、ということです。

また、社会全体として、これまで以上に言葉を発する力も聞く力も衰えてきているようにも思われます。とりわけ、国際間において様々な場で侵略行為などがなされている現状にあっては尚更です。井上ひさしは言葉の力を信じていたのでしょう。2006年7月に出版された『子どもにつたえる日本国憲法』の中で9条1項を以下のように「翻訳」しています。「(略)けれども私たちは/人間としての勇気をふるいおこして/この国がつづくかぎり/その立場を捨てることにした/どんなもめごとも/筋道をたどってよく考えて/ことばのちからをつくせば/かならずしずまると信じるからである/よく考えぬかれたことばこそ/私たちのほんとうの力なのだ」。ここには聖霊降臨の力によって、言葉が通じる道筋があるはずだとの課題が示されていると思えるのです。

 一番伝えたい大切な言葉とは、理路整然とした説得的な理論に基づいたものであるとは限りません。語る人の中での理論や理屈、ものの考えの正しさだけでは十分ではないのです。同じ言葉を語っていても、そこに込められた意味が同じだとは限らないからです。

 わたしたちは言葉の氾濫した時代の中で、言葉自身のもっている正直さとか本音、真心とかが伝わることを信じられなくなっています。言葉の力を信じられなくなっているのかもしれません。しかし、通じる言葉があり、それを聖霊の働きによって信じることができるのだと思い起こさせようとして使徒言行録21節からの物語は語りかけているのではないでしょうか。心の奥底からの今一番大切で正直な言葉は、たどたどしく不器用であっても、また理路整然とした論理体系がなくても信じるに足りる言葉なのです。だから、ここに希望を託し、諦めてはならないとでも言いたげです。わたしたちの語る言葉が開かれていくことを信じてみないかという呼びかけが聞こえてくるのです。

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