ヨハネによる福音書 15章1~15節 「つながり」
今日の聖書の言うところは、キリスト者としての個と教会のつながりについてです。主イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であるがゆえに、「わたし」は「わたし」になることができ、そのつながりとしての枝が教会のメンバーであるという教会論として通常は読まれるのだと思います。しかし、この「まことのぶどうの木」という宣言は、教会が主イエス・キリストにつながっていることだけに留まらないと読むこともできます。主イエスは、人が自分自身になっていくことと同時に様々な人たちとのつながりを深く広く捉えていったのです。人が、教会に限らず自分と、自分を取り巻くあらゆるつながりを整えていくことを作り出し、導き、育てるのは主イエス・キリストだというのです。
しかし、取り巻くつながりをも含めてその人自身を主イエスが導いているとの宣言を聞いても、わたしたちそれぞれの現状に対する認識は楽観的ではありません。不安や不満を抱える関係性を生きています。それでも、自分と周りとのつながりを見渡すとき、ぶどうの木の一年のサイクルの類比から判断すれば、少しは楽な気持になるかもしれません。ぶどうの木はいつも収穫の充実感に満たされているわけではないことは当たり前です。葉がすっかり落ちて幹の表面が枯れているようなこともあるでしょう。しかし、ぶどうの木自体は、枯れているような見た目の時でも確実に生きているのです。芽を出し、枝を張る準備の時なのかもしれませんし、木の中では栄養分を含んだ水がゆっくりとであったとしても確実に流れているのです。この流れを交わりとかつながりの力と受け止めてもいいように思えてきます。殺伐とした世の中にあっても、必ず根底には信頼し、愛し合えるつながりが途絶えずにある。ぶどうの木の景色が主イエスからわたしたちへと広がっていくイメージへと膨らませながら読みたいと思います。
この、「まことのぶどうの木」としてのイエス・キリストの語る事態は「互いに愛し合いなさい。」との命令のもとで展開していくはずです。同じぶどうの木につながってしまっているがゆえに、相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、お互いが対等な人格同士や共同体の関係が新たにされ、育てられていくのです。「わたしはまことのぶどうの木」との宣言は、このつながりに生かされていることを確認するところから、何度でも新しく始めることが赦されていることなのです。ここに信頼していけばよいのです。
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