ヨハネによる福音書 18章1~11節 「何故信じることができるのか」
「わたしである」という言葉は、イエスを捕らえにやってきた者たちが「後ずさりして、地に倒れた。」という出来事が起こされるに留まらず、主イエスの物語に触れるものにまで、その影響を与えるものです。主イエスがキリストであるという事実は、敵対する者たちだけでなく、好意的に、あるいは信じていると自分で理解している人にさえ力をもって立ち向かう言葉です。イエスは誰かを人間自身の力では理解できないことを告げ知らせるのです。主イエス自らが「わたしである」と自己啓示することによってのみ、主イエス・キリストの神との対峙関係へと導かれる唯一の道なのです。この告げ知らせは、人間の予測をこえてただ神の側から一方的なものだからです。この点においては排他的でさえあります。力ある「わたしである」のと言葉によってのみ、主イエスこそがキリストであることが知らされるのです。
わたしたちはもちろん、今日の聖書にある「兵士」や「下役」のように主イエスを捕らえようとしているわけではありません。しかし、神に信じ従う人間であったとしても人間の限界から自由になれないという意味においては、主イエスを捕らえにやってきた「兵士」や「下役」と大きな違いはないのです。
主イエスが「わたしである」との呼びかけと招きによって、わたしたちにその身をもって迫っていることを思います。この主イエスの迫りを受けた者の応答の一つとして聖書の読み手であるわたしたちの歩むべき道を示し、目標に向かって勇気ある第一歩を歩みだすように支えてくださっていることが知らされているのです。この場に立っている主イエスの「わたしである」とのあり方は十字架刑への決意表明でもあります。同時に、読み手に向かって身代わり・代理としてのいのちの差し出しを行っているのです。わたしがわたしになるために、あなたがあなたになるために、わたしたちがわたしたちになるために、主イエスは自らを差し出すのです。自分のいのちでこれらの一人ひとりのいのちを取り戻すために「わたしである」と名乗り出るのです。ただただわたしたちは、この恵みの主イエスが名乗り出て下さっている事実に耳を澄ませることから、この主イエスに相応しく、取り戻されたいのちを尊いこととして受けとめながら、感謝の道を歩むように促されているのです。ここに、わたしたちが何故主イエスをキリストとして信じることができるのかが示されています。この信じる気持ちを起こさせるためにこそ「わたしである」と名乗り出てくださる主イエスが臨んでくださっているのです。このことは献身の中の献身と言えます。したがって、この主イエスを信じる者は、応答としての献身の道を歩むことが赦されているのです。
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