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2022年5月

2022年5月29日 (日)

使徒言行録 1章1~11節 「キリストの昇天」

 キリスト教の歴史理解については聖書を比べながら読むとかなり多くの違いやズレがあることに気が付きます。これらの違いについては、それらが書かれているテキストについての説教で扱うことになると思います。今日は、キリスト教の歴史の基本的な理解を大まかに説明するところを確認することから始めていきたいと思います。使徒信条で「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」と言われている箇書についてです。

 一般的なキリスト教の歴史理解は、同じ著者によって書かれたルカによる福音書から使徒言行録の流れに沿っています。かつての旧約の民イスラエルにおいて約束された救いがユダヤ人という閉ざされた民族からすべての民へと広がりゆく出来事として主イエス・キリストが登場したことから展開していきます。まず主イエスの「時」があります。その生涯における活動において神の意志が実現しました。多くの人たちが生き直すことや喜びに生きる道へと招かれたのです。しかし、この主イエスは十字架という当時の最も忌み嫌われる処刑によって殺されてしまいます。ユダヤ教においては神に呪われた者の死であり、ローマの文脈では奴隷の死であり反逆者の死としての見せしめとしてなされたのです。しかし、この十字架の死がなぶり殺しで見せしめであったことを踏まえながらも、だからこそこの十字架の死は、人間の存在の根本にある罪の現実を身代わりとして、代理としての死であると理解されたのです。これはいわゆる「贖罪」として受け入れられています。この殺された主イエスが神に起こされること、よみがえらされることにより、全面的に肯定され、救いが現実化したというのです。そして、復活の主イエスは40日間弟子たちと共にいて神の国について話されたのです。40日の40とは、非常に象徴性の強い数字であり、かつては、ノアの洪水物語での雨の降る続いた期間でもあり、またイスラエルの民の荒れ野での40年を思い起こさせますし、さらにはモーセが十戒を受けるために断食した期間も40日でした。また、主イエスの誘惑の期間を思い起こさせるものでもあります。準備しながら待つ聖なる期間を40日とか40年とか理解するのは読み込みになるのかもしれませんが、相当な期間であるとか十分な期間であるとかということはできると思います。

 復活してからの40日間、主イエスは弟子たちと共にいましたが、この世に居続けることは許されませんでした。天に帰る日がやってきたのです。天とは、現代人からすれば地球は丸いのですから空の上には宇宙が広がっていることは常識とされていますが、当時の人びとの理解によれば神のいる場であったわけです。現代的に理解すれば、天というのは人間の技術や理解など、あらゆる知恵を絞っても到底手の届かない領域と理解すればいいのかもしれません。

 弟子たちは、せっかく主イエスが復活してくださったのだから、ずっとこのまま一緒にいてほしいと願ったように思われます。弟子たちの「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いに対して、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」。このような言葉を残したままで「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。40日間、主イエスは弟子たちと一緒にいて神の国についての話をしたのですから十分理解したことを踏まえて天に帰って行かれたのではないかと思うのです。いわば、あなたがたにあって、わたしはいなくなるけれども、あなたがたは与えられた使命をもって歩んでいけるし、その歩みを見守っているのだから、基本的なところでは安心していけばいいのだし、きっと大丈夫という気持ちがあったのかもしれません。しかし、弟子たちはまだまだ十分話を聞かされていないと思ったのか、一緒にいなければ嫌だという気持ちがあったのか、あるいは心だけでも主イエスと共に天に一緒に行きたいと願ったのか、ともかく名残惜しさに満たされていたのでしょう。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」とあります。天を見つめていたということは、穿った見方になるかもしれませんが、自分たちが残された地上、自分たちの生きる現場である、この世における責任性や使命に見向きもしなかったことが読み取れるような気がします。そこで、「白い服を着た二人の人」が登場します。「二人」という表現の仕方は、ルカによる福音書の著者の手癖のようなもので他の箇書にも表れます。主イエスと一緒に磔られた罪人も二人であったなど逆の立場を対比する場合もありますが、一人だと客観性がないと考えている節のある使われ方もあります。たとえば、活動の初期において洗礼者ヨハネから主イエスの許に遣わされたのは二人です。エルサレムに入る時に用意する子ろばを連れてこさせるのも二人ですし、過ぎ越しの食卓を用意させるのも二人です。空の墓に現れた輝く衣を着た人も二人、エマオ途上で復活の主イエスに出会ったのも二人です。このように見てくると、ルカによる福音書においては客観的な確実さを表現するための二人であることが分かります。今日の箇書での二人の言うことは「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」です。つまり、このセリフが強調されて読まれることをルカによる福音書は求めていることになります。主イエスは天に昇られた。だからといって、弟子たちはいつまでも天を仰いでばかりいるのは間違っているとの指摘があるのです。

 先ほどの主イエスの言葉には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。これは使徒言行録の2章の初めの聖霊降臨を先取りしています。主イエスは天に昇るのですが、聖霊を送ることにより、来るべき日である来臨の時まで「教会の時」が始まっていくのだとの指摘でもあります。

 主イエスが天に昇られたことは、確かに弟子たちにとっては淋しく悲しく、心細くなるような別れであったことは理解できます。しかし、この別れは全く主イエスとの関係が断絶してしまうようなものではなくて、かつて直接顔と顔を合わせ語り合い、振る舞いによって慰められ、生き直しの喜びに生かされていたことがゼロになってしまうことではないのです。天に向かって雲に包まれるようにしていってしまう主イエスの姿は、これから先、心だけを天に向けることで、この世を軽んじる生き方をしてしまうのではなくて、この世における責任性を喜びのうちに生きて行けという命令があるのではないでしょうか。テキストでは今はまだ聖霊は下ってはいない時点にあるけれども約束があり、実際2章では現実化したと読み手は知っているのです。なぜ「天を見上げて立っているのか。」という言葉から、復活の主イエスとの出会いを経験していればこの世・地上での生き方を証の生き方へと転換していく責任性がキリスト者にはあることを、白い服を着た二人によって語らせているのではないでしょうか。

 現代の教会につらなるわたしたちに「天を見上げて立っているのか。」と問われるあり方が全くないとは思われません。主イエスの教えは心のことだけが課題になっていると理解して、この世の王国と神の王国を別のこととして理解する、ルター以降の二王国説に陥ってしまい、この世の事柄は社会的なことであるから教会には関係のないことで話題にすべきではないとか、あるいはこの世を軽蔑して宗教の聖なる世界観に溺れるようにして現実から逃げ出すとか、さらには主イエスを必要以上に聖なる存在として理解するがゆえにこの世における責任性を無視するとか言った生き方を正当化するキリスト教会も存在します。しかし、主イエスの昇天によって明らかにされている、この世における責任性の問題から逃れられないと理解するのが、証の生活に生きるキリスト者のあり方なのではないでしょうか。主イエスが天に昇って行かれるときに、聖霊を与えるという約束が弟子たちのあり方に展開されていく記事が4章に展開されていきます。2章で聖霊を受けた教会という群れは力が与えられます。主イエスを証する人たちが起こされ、語り行動へと導かれていきます。例えば、4章以降ではペトロとヨハネは議会で取り調べを受け、主イエスの名によって話したり教えたりすることが禁じられます。しかし、彼らはその禁をあえて破る生き方を選ぶのです。419節以下でペトロとヨハネは答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と語るのです。

 わたしたちは、今日の聖書の語りかけを受けて、どこに立ち、証の生涯を歩むのでしょうか。もちろん、わたしたちはナチに抵抗したバルトやボンヘッファーやニーメラーではありません。アメリカの公民権運動のキング牧師でもありません。そもそもわたしたちの所属する日本基督教団は大日本帝国の戦争に積極的に協力するところから成立していることを覚えないわけにはいきません。1939年に宗教団体法が成立し、宗教各派が協力して翼賛体制を作り出していくのです。非国民と思われていたキリスト教会は、一人前の臣民としての誇りを持つことが出来るようになりました。宗教団体法の可決の後、1940年に青山学院を会場にして行われた皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会で教団の成立の気運が非常に高まった道に従って1941年に日本基督教団は成立したのです。この教団に所属している以上戦争責任・戦後責任を負いつつ歩む方向を志すのだという流れもあり、一方でこれを否定する流れもあります。

 今日、わたしたちがここで確認しておきたいこと。それは、昇天に関する信仰理解は、聖霊降臨信仰から来臨信仰の間にある、「教会の時」としての今を生きるためには、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」に続く「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」との約束の実現における聖霊降臨の励ましによって立ち上がり歩みだしたペトロとヨハネの生き方、証の姿を心に刻むことだと思われます。どれほど、具体的な今という現実認識に対して関わり続けられるのかは明確に応えることは単純ではありません。困難でもあります。しかし、この視点・立場に留まり続けることによって神の栄光を現すわたしであり、群れであることへの途上を歩むものとして整えられるようにとの促しが物語の教えるところなのではないでしょうか。この点に関して不安や迷いが生じることは十分に予想できます。また、わたしたちの力や勇気の足りなさを自覚しないわけではありません。しかし、主イエス・キリストの導きと支えの確かさにあって歩むことが赦されているところに慰めがあることは確かであると信じつつ従う道は用意されているのです。

祈り

いのちの源である神!

昇天から来臨に至る約束において働かれる聖霊に委ねつつ歩ませてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                          アーメン。

 

2022年5月22日 (日)

ヨハネによる福音書 18章1~11節 「何故信じることができるのか」

 「わたしである」という言葉は、イエスを捕らえにやってきた者たちが「後ずさりして、地に倒れた。」という出来事が起こされるに留まらず、主イエスの物語に触れるものにまで、その影響を与えるものです。主イエスがキリストであるという事実は、敵対する者たちだけでなく、好意的に、あるいは信じていると自分で理解している人にさえ力をもって立ち向かう言葉です。イエスは誰かを人間自身の力では理解できないことを告げ知らせるのです。主イエス自らが「わたしである」と自己啓示することによってのみ、主イエス・キリストの神との対峙関係へと導かれる唯一の道なのです。この告げ知らせは、人間の予測をこえてただ神の側から一方的なものだからです。この点においては排他的でさえあります。力ある「わたしである」のと言葉によってのみ、主イエスこそがキリストであることが知らされるのです。

 わたしたちはもちろん、今日の聖書にある「兵士」や「下役」のように主イエスを捕らえようとしているわけではありません。しかし、神に信じ従う人間であったとしても人間の限界から自由になれないという意味においては、主イエスを捕らえにやってきた「兵士」や「下役」と大きな違いはないのです。 

 主イエスが「わたしである」との呼びかけと招きによって、わたしたちにその身をもって迫っていることを思います。この主イエスの迫りを受けた者の応答の一つとして聖書の読み手であるわたしたちの歩むべき道を示し、目標に向かって勇気ある第一歩を歩みだすように支えてくださっていることが知らされているのです。この場に立っている主イエスの「わたしである」とのあり方は十字架刑への決意表明でもあります。同時に、読み手に向かって身代わり・代理としてのいのちの差し出しを行っているのです。わたしがわたしになるために、あなたがあなたになるために、わたしたちがわたしたちになるために、主イエスは自らを差し出すのです。自分のいのちでこれらの一人ひとりのいのちを取り戻すために「わたしである」と名乗り出るのです。ただただわたしたちは、この恵みの主イエスが名乗り出て下さっている事実に耳を澄ませることから、この主イエスに相応しく、取り戻されたいのちを尊いこととして受けとめながら、感謝の道を歩むように促されているのです。ここに、わたしたちが何故主イエスをキリストとして信じることができるのかが示されています。この信じる気持ちを起こさせるためにこそ「わたしである」と名乗り出てくださる主イエスが臨んでくださっているのです。このことは献身の中の献身と言えます。したがって、この主イエスを信じる者は、応答としての献身の道を歩むことが赦されているのです。

2022年5月15日 (日)

ヨハネによる福音書 15章1~15節 「つながり」

 今日の聖書の言うところは、キリスト者としての個と教会のつながりについてです。主イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であるがゆえに、「わたし」は「わたし」になることができ、そのつながりとしての枝が教会のメンバーであるという教会論として通常は読まれるのだと思います。しかし、この「まことのぶどうの木」という宣言は、教会が主イエス・キリストにつながっていることだけに留まらないと読むこともできます。主イエスは、人が自分自身になっていくことと同時に様々な人たちとのつながりを深く広く捉えていったのです。人が、教会に限らず自分と、自分を取り巻くあらゆるつながりを整えていくことを作り出し、導き、育てるのは主イエス・キリストだというのです。

 しかし、取り巻くつながりをも含めてその人自身を主イエスが導いているとの宣言を聞いても、わたしたちそれぞれの現状に対する認識は楽観的ではありません。不安や不満を抱える関係性を生きています。それでも、自分と周りとのつながりを見渡すとき、ぶどうの木の一年のサイクルの類比から判断すれば、少しは楽な気持になるかもしれません。ぶどうの木はいつも収穫の充実感に満たされているわけではないことは当たり前です。葉がすっかり落ちて幹の表面が枯れているようなこともあるでしょう。しかし、ぶどうの木自体は、枯れているような見た目の時でも確実に生きているのです。芽を出し、枝を張る準備の時なのかもしれませんし、木の中では栄養分を含んだ水がゆっくりとであったとしても確実に流れているのです。この流れを交わりとかつながりの力と受け止めてもいいように思えてきます。殺伐とした世の中にあっても、必ず根底には信頼し、愛し合えるつながりが途絶えずにある。ぶどうの木の景色が主イエスからわたしたちへと広がっていくイメージへと膨らませながら読みたいと思います。

 この、「まことのぶどうの木」としてのイエス・キリストの語る事態は「互いに愛し合いなさい。」との命令のもとで展開していくはずです。同じぶどうの木につながってしまっているがゆえに、相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、お互いが対等な人格同士や共同体の関係が新たにされ、育てられていくのです。「わたしはまことのぶどうの木」との宣言は、このつながりに生かされていることを確認するところから、何度でも新しく始めることが赦されていることなのです。ここに信頼していけばよいのです。

2022年5月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 13章31~35節 「愛するということ」

 イエス・キリストは「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい。」であると語ります。聖書の語る「愛する」という言葉を本田哲郎神父は「大切にする」と訳しています。その通りだと思います。相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって接することだと思うからです。必要であれば時には、その「愛」のゆえに批判していくこともあり得るということです。ただ忘れてはならないのは「愛しなさい」ではなく「愛し合いなさい」と言われていることです。一方的な「愛」は、時に相手を苦しめることがあることを踏まえておくべきでしょう。お互いが対等な人格同士や共同体の関係の中で実践していくことが「互いに愛し合いなさい」との「新しい掟」に応えていくことだと言えるからです。

 「愛し合いなさい」とは、関係を自らの内側に閉ざしていくことではなく、他者との関係を切断していくことでもありません。ましてや、憎しみや殺意など敵対心を募らせていくことではありません。そんなこと当たり前、と思ってしまいますが、しかし悲しいかなわたしたちは、一方を愛することが他方を排除することになりがちです。そして自分と違うものを受け入れることが苦手です。しかし、その違いを排除の理由にしてはいけないということです。意見などが違っていれば、正していく必要があるなら、話し合いという言葉を信じ、通じ合う努力を続けていくことです。井上ひさしの『子どもにつたえる日本国憲法』という本があります。9条1項の終わりはこのように表現されています。「どんなもめごとも筋道をたどってよく考えて、ことばの力をつくせば、かならずしずまると信じるからである。よく考えぬかれたことばこそ私たちの本当の力なのだ。」言葉の限りを尽くすその根底には、相手への愛があるはずです。

 相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって歩むことへと導かれるのは、人にその能力や才能などがあるからではありません。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」。と語ります。「わたしがあなたがたを愛したように」が決定的な根拠です。ヨハネによる福音書316 節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。ここでは「独り子を信じる者」との限定が記されていますが、重点は前半にあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるところの「愛」の現実こそが、人に「愛する」ことへと導くからです。

2022年5月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 10章7~18節 「まことの羊飼い」

 主イエスは語ります。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」。羊飼いによって、1匹残らず顔形から性格など丸ごとのあり方が知られていることを、羊は知っているのです。受け止められ、受け入れられている安心感に委ねることが赦されているのです。

 「まことの羊飼い」であることは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ことだと言われます。ここでの「羊のために命を捨てる」とは、十字架の磔で殺害されることを示します。一人ひとりの羊であるわたしたちのことをわたしたちが知る以上に、知り尽くしているのが「まことの羊飼い」です。十字架によって担われたのは、人間の根源的な「罪」という事態です。人間が自覚できる犯罪や悪行のことでなく、主イエス・キリストの招きと赦し、これらの呼びかけに依らず、神との正しい関係が損なわれている状態のことです。神との関係における歪みの根っこです。人間が人間である限り、逃れられないものです。その根っこ、基本を「赦す」ために十字架において「羊のために命を捨てる」ことがなされたのです。このことによって、贖い、身代わり、代理の死が成し遂げられるのです。そして、復活のゆえに死からの勝利によって、「生きよ」との促しの力が今のこことして働いているのです。これは、羊である民を生かし、育て、何度でも新しく立ち直すことができ、歩みだす希望と勇気とをもたらすものなのだということです。主イエスの死をもって、これ以上誰かのために、何かの目的を達成するため、あるいは国家という幻想のために死ぬ必要がなくなったのです。

 「わたしは良い羊飼いである。」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と主イエス・キリストは語りかけています。羊は群れで動き、自立した賢さではなく、ただ先頭についていくだけというイメージがあります。この姿は実際の羊から転じて荒れ野を旅する出エジプトのイスラエルの姿でもあります。さらに言えば、「まことの羊飼い」である主イエス・キリストに声をかけられているわたしたちの姿でもあります。主イエスの招きの祝福のゆえに、あるがままで受け入れられていることに安心し、主イエス・キリストにのみ信じ従う道に連なる羊の群れとして、自らのあり方を見つめ直しながら歩んでいきたいものです。

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