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2022年5月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 10章7~18節 「まことの羊飼い」

 主イエスは語ります。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」。羊飼いによって、1匹残らず顔形から性格など丸ごとのあり方が知られていることを、羊は知っているのです。受け止められ、受け入れられている安心感に委ねることが赦されているのです。

 「まことの羊飼い」であることは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ことだと言われます。ここでの「羊のために命を捨てる」とは、十字架の磔で殺害されることを示します。一人ひとりの羊であるわたしたちのことをわたしたちが知る以上に、知り尽くしているのが「まことの羊飼い」です。十字架によって担われたのは、人間の根源的な「罪」という事態です。人間が自覚できる犯罪や悪行のことでなく、主イエス・キリストの招きと赦し、これらの呼びかけに依らず、神との正しい関係が損なわれている状態のことです。神との関係における歪みの根っこです。人間が人間である限り、逃れられないものです。その根っこ、基本を「赦す」ために十字架において「羊のために命を捨てる」ことがなされたのです。このことによって、贖い、身代わり、代理の死が成し遂げられるのです。そして、復活のゆえに死からの勝利によって、「生きよ」との促しの力が今のこことして働いているのです。これは、羊である民を生かし、育て、何度でも新しく立ち直すことができ、歩みだす希望と勇気とをもたらすものなのだということです。主イエスの死をもって、これ以上誰かのために、何かの目的を達成するため、あるいは国家という幻想のために死ぬ必要がなくなったのです。

 「わたしは良い羊飼いである。」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と主イエス・キリストは語りかけています。羊は群れで動き、自立した賢さではなく、ただ先頭についていくだけというイメージがあります。この姿は実際の羊から転じて荒れ野を旅する出エジプトのイスラエルの姿でもあります。さらに言えば、「まことの羊飼い」である主イエス・キリストに声をかけられているわたしたちの姿でもあります。主イエスの招きの祝福のゆえに、あるがままで受け入れられていることに安心し、主イエス・キリストにのみ信じ従う道に連なる羊の群れとして、自らのあり方を見つめ直しながら歩んでいきたいものです。

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