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2022年4月17日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 「福音によって生かされて」

 主イエスをキリストとして信じることができるようになるには、人間の側の努力でどうにかできるものではありません。主イエスの側からの呼びかけ・語りかけによってのみなされるのです。使徒言行録に記されているパウロの場合ほどドラマティックではないにせよ。

 キリストが「死んだこと」、「葬られたこと」は、わたしたちの罪のためであったと言われます。買取を意味する贖い、代理、身代わりとしての死であったとされるのです。しかし、復活において、その死が乗り越えられることにより、主イエスの呼びかけ・招きを受けた者は、新しく立ち上がり、歩み始める力の勇気と希望に与る道が示されるのです。この、主イエスの十字架の死から復活という出来事によって招かれ・呼びかけを恵みとして受け止め、聞くことによって、信じ従う決断する者をキリスト者と呼びます。

 パウロは9節で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。わたしたちにとってパウロは偉大な伝道者であり、使徒であることは知られています。しかし、熱心に教会を迫害するものであったという過去を消し去ることはできないのです。このパウロが復活の主イエスと出会うことにより生き方を決定的に変えたこともまた事実です。このことは、わたしたちにとって、非常に大きな希望です。わたしたちは「神の教会を迫害する」という点において、イエスと出会う以前のパウロと同質です。差別や抑圧、病や貧しさと闘い抜かれた主イエスに従うと告白しながら、それらの悪しき社会をそのまま受け入れてしまっているからです。今、ウクライナの惨状に心痛め、ウクライナからの避難民を受け入れようとしている日本という国に住むわたしたちは、1年前に入管施設の中で亡くなったウィシュマさんの理不尽に死と無関係ではありません。難民を受け入れないという国のシステムをそのままにしておいたからです。このような「神の教会を迫害する」わたしたちもまた、復活の主イエスに出会うことができるのです。

 復活の主イエスとの出会い直しができるのだと願い、罪を引き受けてくださった主イエスがこの世の理不尽さに立ち向かう力を与えてくださる、闇の中にいるわたしたちを光の世界に引きずり出してくださる、そのことを感謝するのがイースター・復活祭だと思うのです。「福音によって生かされる」とは、すべてのいのちが大切にされる世界を作り出すという使命を生きている、ということです。その力を大なり小なり、わたしたちは与えられているのです。

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