ヨハネによる福音書 20章19~31節 「あなたがたに平和が」
主イエスは傷だらけのまま来て、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです。その傷は、その生涯の歩み全体を踏まえての傷、十字架において刺し貫かれた方であることを激しく思い起こさせるものでした。そして、弟子たちを閉じられた家という空間、そして関係から解放すべく派遣するのです。その時、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語ったとあります。この息を吹きかける所作は、人の創造物語を前提としています。土の塵に過ぎない塊に神が息を吹きかけると人が生きる者とされたという言葉です。この、人が人として生きる力である神の息が、復活の主イエスによる「聖霊を受けなさい」との言葉によってなされたのです。家に閉じこもるような、社会的に、あるいは関係的に閉ざされた、土の塵に過ぎないような死の世界から脱出して、新しいいのちに与って歩めとの促しとして受け取ることができるのではないでしょうか。人を生かす聖霊の働きに委ねて歩み始めることが与えられたとの宣言とも読むことができます。
しかし、先ほどの場にいなかったトマスは信じられないと言うのです。一方、他の弟子たちも復活の主イエスから派遣の言葉として聖霊を受けるように言われていたにもかかわらず、家を閉ざしたままでした。復活の主を見たといっても、まだ十分でなかったのはトマスだけではなかったようにも思われます。その場に再び復活の主イエスが登場し、同じように「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。さらに、トマスに向かって自らの身体を示しつつ「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語りかけました。
「あなたがたに平和があるように」との挨拶は、人間関係の基本的な立場の表明でもあります。悪意や敵意をすべて捨て去る方向へと導く言葉です。大きな原動力にならず力のない言葉に留まるのは、人間の弱さや勇気のなさに由来します。主イエス・キリストの「あなたがたに平和があるように」との言葉は、このような人間の混沌や無力さを遥かに凌ぐものなのです。ここに信頼するように「あなたがたに平和があるように」との挨拶の言葉が語られていることを何が何でも信じたいと思います。そして、「聖霊を受けなさい」との言葉によって本当が語られていると信じたいのです。さらには「見ないのに信じる人は、幸いである」へと方向づけられていくのではないかと心から願うのです。
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