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2022年4月10日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「御心に適うこと」

 今日の聖書は14章ですが、先立つ13章では、この世の天変地異や様々な争いごと、それこそ世の終わりであるかに思われるような事態の只中にあって「目を覚ましている」ことが求められています。137節以下では「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」このように語られます。様々な混乱と苦難の中にあってなすべきは10節以降によれば、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と続くのです。さらに1330節以降では「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」と続くのです。1337節では、これらのことを畳み込むようにして「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」という言葉に集約されます。この「目を覚ましていなさい。」という促しと逆の姿が、主イエスが傍らにいるにもかかわらず眠ってしまうことです。この眠ってしまうことの関連が1321節以下で示されています。すなわち、「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」とあります。気をつけていることや目を覚ましていることが求められているのに眠ってしまうことは、主イエスの願いである御心から的を外してしまうことになります。弟子たちの「無理解」は先々週の、いわゆる山上の変貌の記事のところで、主イエスの姿が白く輝き、モーセとエリヤが語り合っているのを見た時に、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」という恐れの姿でもあります。この「恐れ」は、奇跡をおこなう主イエスに対する反応であり、また敵対する勢力の反応でもありました。主イエスは「恐れるな」と弟子たちに指示を与えますが、どこまで理解されたのかは分かりません。「恐れ」「何を言っていいのかわからない」「弟子たちの内で誰が一番なのか」また、先週の話のヤコブとヨハネの右に左にという抜け駆けに代表される、弟子たちの中でより優位に立ちたいという欲望、など、弟子たちは「無理解」そのものです。根本的な問題がここにはあります。主イエス・キリストが遜りと謙遜を生きるものであるという中心を理解していなかったということです。いわば、主イエスの御心全体に対する「無理解」であったと言えます。

 今日の聖書で語られているのは、主イエスの祈りです。もうすぐにでも逮捕され、当時の最も忌み嫌われて残酷な十字架による処刑を目前にして、主イエスは神の御心を祈るのです。力強く凛々しい姿ではなく、どちらかというと無様な、また惨めで弱々しく見えるような姿で祈っているのです。「わたしは死ぬほど苦しい。できることなら、この苦しみは避けたい。」と、このように嫌だと祈るのです。堂々とした立派な姿ではいないのです。アバ父よと祈り、杯である苦しみを取り去ってほしいと祈るのです。アバという言葉はアラム語で父親に対して非常にくだけた言い方で、当時のパレスチナで、父さんとか父ちゃんとか、そんな感じでしょうか。すぐそこにいる存在に対して祈っているのです。神の全能について語り、杯に象徴されるところの苦しみ、今あるところの、どうしようもない不安も恐れも怯えもある、その杯を取ってほしいのだと。要するに、今は死ぬ時ではないという命乞いをしているようにも読めるのです。

 イエスは、生身の姿をさらけ出して神に訴えます。この主イエスの祈りとは、そのような意味において神は沈黙しているし、弟子たちは眠ってしまう、という孤立無援の・孤独な、としての祈りであったかもしれません。しかし、わたしは主イエスの、このような祈りこそが真の祈りだろうと知りました。沈黙している神に向かって祈るのです。アバと呼ぶべき、すぐ傍にいるお父ちゃんとして、訴えかける相手がいるということを前提として自らをさらけ出すような祈りをしているのです。受け止めてくださる方がそこにいることを前提とした祈りです。それに対して神は何も語らずに沈黙しています。この神の沈黙、神の無反応でしょうか。違います。神は、この沈黙によって、歩んでいく方向性という一つの答えを与えているのです。それが主イエスの祈りにおいて反映されています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と転じていくところに、です。沈黙している「御心」において、神にあえて委ねていくという決意に導かれていく、その導きにおいて、神は主イエスの道を支えたのです。このような意味において神ご自身は主イエス・キリストをその祈りにおいて確実に受け止めてくださったのです。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(1446)という祈りは、実は主イエスの中で自己完結するのではなくて、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(1337)という仕方で、わたしたちもこのような祈りへと導かれていく可能性へと開かれています。「心は燃えても、肉体は弱い」(1438)キリスト者の弱さをも包み込んでしまうような、つまり弱さに共感する方法ですべての人のための代理の祈りです。そして、その祈りは神にしか解決できない、神のみが聞き届けてくださるのです。主イエスご自身が身代わりとして、代理として担って神に祈ることによって、わたしたちの執り成しをなさってくださっているのです。この主イエスの祈りがあるからこそ、わたしたちは率直に自分の今置かれている苦しみや悲しみや嘆き、痛みや病を「主イエス・キリストの御名によって」祈ることが赦されているのです。このような祈りを今日も主イエスは祈り続けてくださっていることを信じることのできる幸いを信じて歩むことができるのです。ゲッセマネの園での祈りも、十字架上での絶叫も主イエスの独り言ではありません。神に対する人生全体をかけた身体ごとの心の底からの訴えとしての祈りの姿がここにはあります。が、主イエスの祈りを聞き届ける神はいるのか、このような疑問が涌いてきます。

 しかし、神は祈りを聴いてくださっているのです。祈りが聞かれるとは、その願いに応じて都合よくインスタントに即答し、願い通りに働くとは限りません。神には神のお考えとしての御心があるはずです。祈る時、ここに神が存在し、絶望の叫びとしての祈りを一言も聞き逃すまいと身構えていてくださるのです。主イエスの祈りに対する答えは、マルコ福音書の理解によれば復活の約束において明らかにされます。主イエスは復活を確信して十字架にかかったのではありません。確かに聖書には主イエス自らが復活を言葉にしている箇書がいくつかあります。しかし、それらは主イエスの神々しさを強調するために後から書き足されたとの聖書学者の意見に賛成します。復活するのが確実であれば、主イエスは死を恐れる必要などなかったのです。

 わたしたちは、主イエスほどの真剣さではないにしても、深刻な課題、恐れ、不安などのただ中で、もし神がいるならわたしの今を救い上げてほしい、助けてほしいと願い、祈ります。けれども、わたしたちが祈る前に、主イエスご自身が祈っていてくださるのです。この主イエスの姿に導かれて、わたしたちはわたしたちそれぞれに与えられた課題に正面から向かいつつ祈るのです。言葉が整えられた美しい言葉である必要はありません。たどたどしく、ぶざまであって構わないのです。ここにいるイエス・キリストの招きの確かさに、そして招きの真実に信頼して、正直に自らを曝け出すようにして祈ればいいのです。すべての祈りは、神に聴かれているのです。

 ですから、わたしたちは「主イエスの御名によって」祈るのです。さらに言えば、祈りは祈り続けることによって深められていき、展開し、新しい状況の予感を生きることができるはずです。とりわけ、今、ウクライナで、あるいはウクライナに思いを寄せて世界中で、神よ何故ですか、助けてくださいと祈られています。絶望にかられ、神の沈黙に苦しんでいます。しかし、主イエスが先んじて祈っていることを忘れてはならないのです。そこに信頼し祈り続けるほかありません。

 さらに主イエスの祈りの態度は1533節以下からも読み取ることができます。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」ゲッセマネでの祈りの言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」であり、「イエスは大声を出して息を引き取られた。」この大声が引き続く祈りだと解釈するのは読み込みになるのでしょうか。ゲッセマネの園での祈りから、「お見捨てになったのですか」という問いと絶叫して果てる姿をも主イエスの祈り」であり、しかもわたしたちの代理・身代わりの祈りとして受け止めることができるのではないでしょうか。この主イエスの姿全体が一貫した御心の実現としての祈りなのではないでしょうか。この主イエスによって代理され、身代わりとなってくださっているがゆえに、わたしたちは、この主イエスに支えられて祈りへと導かれるのではないでしょうか。「天にまします我らの父よ ねがわくは御名をあがめさせたまえ 御国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ御国を来たらせたまえ」との主の祈りの言葉が実現する道へと招かれるのではないでしょうか。御心が主イエスにおいてなったように、新しくわたしたちにおいてもなっていく道が備えられているのです。ですから、主イエスの祈る姿に支えられて。ご一緒に祈りの道を歩んでいきたいと願うのです。主イエスの御名によって感謝しつつ、ご一緒に祈りましょう。

<祈り>

主イエス・キリストの神!

神が神として働き続けておられることを信じます。

わたしたちが、祈る主イエスの姿を心に刻む時が与えられましたことを感謝します。

祈りものとしての歩みを導いてください。

わたしたちは、あの弟子たちのように主イエスを理解することができません。

信じる道へと招いてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

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