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2022年4月

2022年4月24日 (日)

ヨハネによる福音書 20章19~31節 「あなたがたに平和が」

 主イエスは傷だらけのまま来て、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです。その傷は、その生涯の歩み全体を踏まえての傷、十字架において刺し貫かれた方であることを激しく思い起こさせるものでした。そして、弟子たちを閉じられた家という空間、そして関係から解放すべく派遣するのです。その時、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語ったとあります。この息を吹きかける所作は、人の創造物語を前提としています。土の塵に過ぎない塊に神が息を吹きかけると人が生きる者とされたという言葉です。この、人が人として生きる力である神の息が、復活の主イエスによる「聖霊を受けなさい」との言葉によってなされたのです。家に閉じこもるような、社会的に、あるいは関係的に閉ざされた、土の塵に過ぎないような死の世界から脱出して、新しいいのちに与って歩めとの促しとして受け取ることができるのではないでしょうか。人を生かす聖霊の働きに委ねて歩み始めることが与えられたとの宣言とも読むことができます。

 しかし、先ほどの場にいなかったトマスは信じられないと言うのです。一方、他の弟子たちも復活の主イエスから派遣の言葉として聖霊を受けるように言われていたにもかかわらず、家を閉ざしたままでした。復活の主を見たといっても、まだ十分でなかったのはトマスだけではなかったようにも思われます。その場に再び復活の主イエスが登場し、同じように「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。さらに、トマスに向かって自らの身体を示しつつ「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語りかけました。

 「あなたがたに平和があるように」との挨拶は、人間関係の基本的な立場の表明でもあります。悪意や敵意をすべて捨て去る方向へと導く言葉です。大きな原動力にならず力のない言葉に留まるのは、人間の弱さや勇気のなさに由来します。主イエス・キリストの「あなたがたに平和があるように」との言葉は、このような人間の混沌や無力さを遥かに凌ぐものなのです。ここに信頼するように「あなたがたに平和があるように」との挨拶の言葉が語られていることを何が何でも信じたいと思います。そして、「聖霊を受けなさい」との言葉によって本当が語られていると信じたいのです。さらには「見ないのに信じる人は、幸いである」へと方向づけられていくのではないかと心から願うのです。

2022年4月17日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 「福音によって生かされて」

 主イエスをキリストとして信じることができるようになるには、人間の側の努力でどうにかできるものではありません。主イエスの側からの呼びかけ・語りかけによってのみなされるのです。使徒言行録に記されているパウロの場合ほどドラマティックではないにせよ。

 キリストが「死んだこと」、「葬られたこと」は、わたしたちの罪のためであったと言われます。買取を意味する贖い、代理、身代わりとしての死であったとされるのです。しかし、復活において、その死が乗り越えられることにより、主イエスの呼びかけ・招きを受けた者は、新しく立ち上がり、歩み始める力の勇気と希望に与る道が示されるのです。この、主イエスの十字架の死から復活という出来事によって招かれ・呼びかけを恵みとして受け止め、聞くことによって、信じ従う決断する者をキリスト者と呼びます。

 パウロは9節で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。わたしたちにとってパウロは偉大な伝道者であり、使徒であることは知られています。しかし、熱心に教会を迫害するものであったという過去を消し去ることはできないのです。このパウロが復活の主イエスと出会うことにより生き方を決定的に変えたこともまた事実です。このことは、わたしたちにとって、非常に大きな希望です。わたしたちは「神の教会を迫害する」という点において、イエスと出会う以前のパウロと同質です。差別や抑圧、病や貧しさと闘い抜かれた主イエスに従うと告白しながら、それらの悪しき社会をそのまま受け入れてしまっているからです。今、ウクライナの惨状に心痛め、ウクライナからの避難民を受け入れようとしている日本という国に住むわたしたちは、1年前に入管施設の中で亡くなったウィシュマさんの理不尽に死と無関係ではありません。難民を受け入れないという国のシステムをそのままにしておいたからです。このような「神の教会を迫害する」わたしたちもまた、復活の主イエスに出会うことができるのです。

 復活の主イエスとの出会い直しができるのだと願い、罪を引き受けてくださった主イエスがこの世の理不尽さに立ち向かう力を与えてくださる、闇の中にいるわたしたちを光の世界に引きずり出してくださる、そのことを感謝するのがイースター・復活祭だと思うのです。「福音によって生かされる」とは、すべてのいのちが大切にされる世界を作り出すという使命を生きている、ということです。その力を大なり小なり、わたしたちは与えられているのです。

2022年4月10日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「御心に適うこと」

 今日の聖書は14章ですが、先立つ13章では、この世の天変地異や様々な争いごと、それこそ世の終わりであるかに思われるような事態の只中にあって「目を覚ましている」ことが求められています。137節以下では「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」このように語られます。様々な混乱と苦難の中にあってなすべきは10節以降によれば、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と続くのです。さらに1330節以降では「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」と続くのです。1337節では、これらのことを畳み込むようにして「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」という言葉に集約されます。この「目を覚ましていなさい。」という促しと逆の姿が、主イエスが傍らにいるにもかかわらず眠ってしまうことです。この眠ってしまうことの関連が1321節以下で示されています。すなわち、「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」とあります。気をつけていることや目を覚ましていることが求められているのに眠ってしまうことは、主イエスの願いである御心から的を外してしまうことになります。弟子たちの「無理解」は先々週の、いわゆる山上の変貌の記事のところで、主イエスの姿が白く輝き、モーセとエリヤが語り合っているのを見た時に、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」という恐れの姿でもあります。この「恐れ」は、奇跡をおこなう主イエスに対する反応であり、また敵対する勢力の反応でもありました。主イエスは「恐れるな」と弟子たちに指示を与えますが、どこまで理解されたのかは分かりません。「恐れ」「何を言っていいのかわからない」「弟子たちの内で誰が一番なのか」また、先週の話のヤコブとヨハネの右に左にという抜け駆けに代表される、弟子たちの中でより優位に立ちたいという欲望、など、弟子たちは「無理解」そのものです。根本的な問題がここにはあります。主イエス・キリストが遜りと謙遜を生きるものであるという中心を理解していなかったということです。いわば、主イエスの御心全体に対する「無理解」であったと言えます。

 今日の聖書で語られているのは、主イエスの祈りです。もうすぐにでも逮捕され、当時の最も忌み嫌われて残酷な十字架による処刑を目前にして、主イエスは神の御心を祈るのです。力強く凛々しい姿ではなく、どちらかというと無様な、また惨めで弱々しく見えるような姿で祈っているのです。「わたしは死ぬほど苦しい。できることなら、この苦しみは避けたい。」と、このように嫌だと祈るのです。堂々とした立派な姿ではいないのです。アバ父よと祈り、杯である苦しみを取り去ってほしいと祈るのです。アバという言葉はアラム語で父親に対して非常にくだけた言い方で、当時のパレスチナで、父さんとか父ちゃんとか、そんな感じでしょうか。すぐそこにいる存在に対して祈っているのです。神の全能について語り、杯に象徴されるところの苦しみ、今あるところの、どうしようもない不安も恐れも怯えもある、その杯を取ってほしいのだと。要するに、今は死ぬ時ではないという命乞いをしているようにも読めるのです。

 イエスは、生身の姿をさらけ出して神に訴えます。この主イエスの祈りとは、そのような意味において神は沈黙しているし、弟子たちは眠ってしまう、という孤立無援の・孤独な、としての祈りであったかもしれません。しかし、わたしは主イエスの、このような祈りこそが真の祈りだろうと知りました。沈黙している神に向かって祈るのです。アバと呼ぶべき、すぐ傍にいるお父ちゃんとして、訴えかける相手がいるということを前提として自らをさらけ出すような祈りをしているのです。受け止めてくださる方がそこにいることを前提とした祈りです。それに対して神は何も語らずに沈黙しています。この神の沈黙、神の無反応でしょうか。違います。神は、この沈黙によって、歩んでいく方向性という一つの答えを与えているのです。それが主イエスの祈りにおいて反映されています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と転じていくところに、です。沈黙している「御心」において、神にあえて委ねていくという決意に導かれていく、その導きにおいて、神は主イエスの道を支えたのです。このような意味において神ご自身は主イエス・キリストをその祈りにおいて確実に受け止めてくださったのです。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(1446)という祈りは、実は主イエスの中で自己完結するのではなくて、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(1337)という仕方で、わたしたちもこのような祈りへと導かれていく可能性へと開かれています。「心は燃えても、肉体は弱い」(1438)キリスト者の弱さをも包み込んでしまうような、つまり弱さに共感する方法ですべての人のための代理の祈りです。そして、その祈りは神にしか解決できない、神のみが聞き届けてくださるのです。主イエスご自身が身代わりとして、代理として担って神に祈ることによって、わたしたちの執り成しをなさってくださっているのです。この主イエスの祈りがあるからこそ、わたしたちは率直に自分の今置かれている苦しみや悲しみや嘆き、痛みや病を「主イエス・キリストの御名によって」祈ることが赦されているのです。このような祈りを今日も主イエスは祈り続けてくださっていることを信じることのできる幸いを信じて歩むことができるのです。ゲッセマネの園での祈りも、十字架上での絶叫も主イエスの独り言ではありません。神に対する人生全体をかけた身体ごとの心の底からの訴えとしての祈りの姿がここにはあります。が、主イエスの祈りを聞き届ける神はいるのか、このような疑問が涌いてきます。

 しかし、神は祈りを聴いてくださっているのです。祈りが聞かれるとは、その願いに応じて都合よくインスタントに即答し、願い通りに働くとは限りません。神には神のお考えとしての御心があるはずです。祈る時、ここに神が存在し、絶望の叫びとしての祈りを一言も聞き逃すまいと身構えていてくださるのです。主イエスの祈りに対する答えは、マルコ福音書の理解によれば復活の約束において明らかにされます。主イエスは復活を確信して十字架にかかったのではありません。確かに聖書には主イエス自らが復活を言葉にしている箇書がいくつかあります。しかし、それらは主イエスの神々しさを強調するために後から書き足されたとの聖書学者の意見に賛成します。復活するのが確実であれば、主イエスは死を恐れる必要などなかったのです。

 わたしたちは、主イエスほどの真剣さではないにしても、深刻な課題、恐れ、不安などのただ中で、もし神がいるならわたしの今を救い上げてほしい、助けてほしいと願い、祈ります。けれども、わたしたちが祈る前に、主イエスご自身が祈っていてくださるのです。この主イエスの姿に導かれて、わたしたちはわたしたちそれぞれに与えられた課題に正面から向かいつつ祈るのです。言葉が整えられた美しい言葉である必要はありません。たどたどしく、ぶざまであって構わないのです。ここにいるイエス・キリストの招きの確かさに、そして招きの真実に信頼して、正直に自らを曝け出すようにして祈ればいいのです。すべての祈りは、神に聴かれているのです。

 ですから、わたしたちは「主イエスの御名によって」祈るのです。さらに言えば、祈りは祈り続けることによって深められていき、展開し、新しい状況の予感を生きることができるはずです。とりわけ、今、ウクライナで、あるいはウクライナに思いを寄せて世界中で、神よ何故ですか、助けてくださいと祈られています。絶望にかられ、神の沈黙に苦しんでいます。しかし、主イエスが先んじて祈っていることを忘れてはならないのです。そこに信頼し祈り続けるほかありません。

 さらに主イエスの祈りの態度は1533節以下からも読み取ることができます。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」ゲッセマネでの祈りの言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」であり、「イエスは大声を出して息を引き取られた。」この大声が引き続く祈りだと解釈するのは読み込みになるのでしょうか。ゲッセマネの園での祈りから、「お見捨てになったのですか」という問いと絶叫して果てる姿をも主イエスの祈り」であり、しかもわたしたちの代理・身代わりの祈りとして受け止めることができるのではないでしょうか。この主イエスの姿全体が一貫した御心の実現としての祈りなのではないでしょうか。この主イエスによって代理され、身代わりとなってくださっているがゆえに、わたしたちは、この主イエスに支えられて祈りへと導かれるのではないでしょうか。「天にまします我らの父よ ねがわくは御名をあがめさせたまえ 御国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ御国を来たらせたまえ」との主の祈りの言葉が実現する道へと招かれるのではないでしょうか。御心が主イエスにおいてなったように、新しくわたしたちにおいてもなっていく道が備えられているのです。ですから、主イエスの祈る姿に支えられて。ご一緒に祈りの道を歩んでいきたいと願うのです。主イエスの御名によって感謝しつつ、ご一緒に祈りましょう。

<祈り>

主イエス・キリストの神!

神が神として働き続けておられることを信じます。

わたしたちが、祈る主イエスの姿を心に刻む時が与えられましたことを感謝します。

祈りものとしての歩みを導いてください。

わたしたちは、あの弟子たちのように主イエスを理解することができません。

信じる道へと招いてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

2022年4月 3日 (日)

マルコによる福音書 10章35~45節 「権力を無化するために」

 今日の聖書は、マルコによる福音書に特徴的な弟子たちの無理解のテーマについて語られている箇書になります。登場人物であるヤコブとヨハネの兄弟がイエスのところにやってきます。2人は、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと願ったのです。これはイエスという方が栄光の王として、当時の社会で彼らの思い描く王として君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。並行するマタイによる福音書では、本人たちの願いではなく、その母を登場させていますが、事実としては本人たちだったと考えられます。ヤコブとヨハネの責任を母に擦り付けているわけです。いずれにしても、イエスという王の重鎮として二人を受け入れてほしいということです。少し前のところでは誰が一番かという議論をしていたという記事もあります。要するに、弟子たちの中で誰がイエスに近いのか、イエスをめぐって、イエスとの距離によって自分の価値が優れているかを競っている中、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とあります。言い換えれば、残りの10人も同じように自分が一番であり二番になりたかったのです。マルコによる福音書を通して読む時に、いわゆる弟子批判というテーマがあります。特にペトロに対してです。彼は弟子の代表と見做されていましたから。非常に強く批判的な見方がなされています。これについて、複数の新約聖書学者たちは、このようなペトロたちを代表とするようなキリスト者になってはいけない、だからそうではない生き方をすべきだということがマルコ福音書の意図だと主張しています。確かにペトロを代表とする弟子たちを反面教師として見る視点は必要ですが、切り捨ててしまうのではなくて自分のあり方と重ね合わせるようにして読むと、弟子批判の動機がもっと柔らかく穏やかなものとして受け止めることができるようになると思います。わたしたちを右大臣左大臣、一番と二番にしてくれ、あるいは12人の中で誰が一番かという争いは、誰彼と比較して自分が優位に立つことによって指導者の権威を笠に着て権力を行使しようとする、この世の論理から自由でなかったということです。

10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

 「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」という言葉で想定されている人たちとは、当時のローマ帝国の皇帝であったり、あるいは代官であったり、ヘロデ家の人々であったり、あるいは宗教的に支配している祭司長、律法学者、ファリサイ派、長老などでしょう。ヤコブとヨハネの願いは、この権力体系に乗っかってしまいます。しかし、それは根本的に間違いです。イエス・キリストに従うということであれば、まずイエス・キリストがどうであったかに注目するところから始めるべきです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」というイエス・キリストの問いに対して応えていくことは、自分を中心にして物事を考え行動する生き方ではありません。イエスに真似び、倣っていくことです。そのためにはイエス・キリストご自身が十字架へと歩まれた謙遜と遜り、杯と洗礼に示される苦難の道を歩む方なのだと受け止め直すことが必要です。これが「皆に仕える者」「すべての人の僕」として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と言われていることによって知らされます。そして、それぞれに与えられている十字架を背負ってついていくのです。このようにしてイエスの後ろに直っていき、先頭に立つ主イエスに従っていくのです。この促しを今日の聖書は語るのです。

 そのイエスの歩みとは何であったのか。それは言うまでもなく、十字架への道行きです。しかもそれは、他者、より小さくされた人たち一人ひとりの命の尊厳を取り戻す仕方で仕えていったのです。それは、弱りを覚えた人たちだけではありません。イエスのことを理解しきれていなかった弟子たちの愚かさや躓きや弱ささえも、イエス・キリストは受け入れていたのです。十字架への道行きとは、徹底した同伴者としての歩みでもあったのです。

 上昇志向は、人間のあり方を歪にします。誰彼と比較して自分の方がより優れた人間であるとする眼差しによって、実はその眼差しを与えている本人の人格とか自尊心を貶めてしまうのです。そうではなくて、モノを見る、考える、判断する基準を、この世の価値観とは全く別の、いわば神の国の価値観に置くのです。「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされ、より弱い人たちとつながっていくところで、そしてそれがより困難な道であったとしても、これを志していくところにこそイエス・キリストの道があるのです。この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのですから、思いあがった人生も、どこかで転換されていくのではないでしょうか。別の生き方、もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと促されることによって人生の質みたいなものがより豊かにされていくことができるのではないでしょうか。そのような筋道をイエス・キリストがつくってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向とか思い上がりとか傲慢さというものが、イエス・キリストの十字架によって打ち砕かれ、わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていくことができる中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができ、信じることができる道があるはずだ、迷っていても辿り着く場所があるはずだ、そう信じることができるようになるのです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と主イエスは語られました。イエス・キリストの十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげたことです。このいのちをささげられたところのイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずだ。きっとあるに違いない。いや、そのように確信できる。ここにキリスト者の希望があるのではないでしょうか。

 こんにち、わたしたちの身近なところから国際関係に至るまで、ヤコブとヨハネの野望や欲望は決して無関係に思われません。生活の場でも国際間にあっても、誰が一番二番なのか、そしてその場に上り詰めていきたい、認められたいという願いが満ち溢れているように思われてなりません。その人を突き動かす原動力のようなものが神のように働くのではないかと思います。そのような偽物の神によって自らに権力を与え、さらに実力を行使していくのです。そこに起こるのは、支配―被支配という関係です。水平で平等な関係ではありません。親が子に、国が国に対して何を行っているのかを見極める必要があるのではないでしょうか。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という現実は、とりわけ今の世界状況の中で、わたしたちにとって切実な課題として圧し掛かっているのです。アメリカのバイデン大統領の言うところの「民主主義と専制主義の対立」だと指摘すれば事足りるのでしょうか。権力に対して権力で立ち向かうという方法、権力を行使して、より優位に立つという仕方の戦略ではなく、そもそもの発想の転換をしない限り、解決への道行きは遠いと言わざるを得ません。こんにちの課題からすれば、103節の「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢が求められています。相手の低みに寄り添うこと。相手の場に対して、また相手の丸ごとのいのちを生かすために寄り添うことに他ならないのではないでしょうか。たとえば、国と国との対立の中で侵略者に対して抵抗し、闘うことは当然のことなのかもしれません。しかし、いずれの側の軍隊の中でも国の存在こそが最も重要だと判断される時には、個という一人の存在・いのちは軽く扱われます。いずれの国の軍隊においても1人の人間の尊厳・いのちは国に吸収されてしまうのです。いわば、国という幻想の中でひとつの名もなき歯車以上のものではなくされ、個としての人間の価値は貶められていくのです。このことを、わたしたちはもっと強く自覚すべきではないでしょうか。もちろん侵略は悪であるとの判断に迷いはありません。しかし、この間、プーチンが悪で、ゼレンスキーが正義であるという図式が当たり前の前提として語られていることに違和感を覚えます。単純化するところに落とし穴はないかと。ロシアの人民がプーチンの暴走を止めるしかないと思いつつ、日本という場にあって、ウクライナの抗戦を応援することも、降伏を促すことも語ることはしたくはありません。ただ、別の物語の可能性を主イエスの発想から示されたいと願います。

 さて、主イエスの今日の言葉は「十戒」の中で教えられていることが前提となっています。「十戒」の前半で神のみを神として受け止めることが語られています。この前半から後半の倫理が導き出されるのです。神を神とすることは偶像を退けることです。つまり、思考や行動の原理を神に置くことによって、殺すことや盗むことやむさぼるということをしてはならないという倫理が方向づけられるのです。この「十戒」に立脚して、主イエスに信じ従い、権力への欲望や野望を断ち切ることが求められているのではないでしょうか。これをプロテスタントの神学理解として展開していけばバルメン宣言第1項にまとめられるように思われます。すなわち、【聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】

 コロナ下のステイホーム状態にあって家庭内ではDVや虐待が増えていること、またロシアがウクライナを侵略している現実と各国の対応の仕方など、いずれもヤコブとヨハネの立ち居振る舞いと決して無縁のことではないと言えます。神を神として受け止める場に立ち返らなければ、自分を神として建て上げてしまうバベルの塔の精神に飲み込まれてしまうからです。今、あちこちに立ち現われているベベルの塔に対して、いかなる立ち位置でいられるのかが問われているのではないでしょうか。相対立するどちらかの側に味方するということよりも、別の物語を主イエスの言葉からいかに聞き取っていくのかが求められているのではないでしょうか。ヤコブとヨハネの人間という限界性にあって「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢に立ち返ることを自分の現場で行っていくことが、世界大でものを考え、地域的に行動していく証しなのではないでしょうか。その課題を担っていくために聖霊の助けを求めるものです。

 わたしたちは、国というものがあって当然のものであり、そこに所属しているという意識も含め一種の信仰であるかのような前提に立っています。国という神話と言ってもいいのかもしれません。この神話のようなものを一度相対化しながら発想していくことが主イエスから提示された、権力を無化する思想なのではないかと思わされています。国という存在や所属意識よりも、まず個・1人の人のあるがままの存在、そのいのちが尊重されるあり方を祈り求めていく道こそが、今日の聖書の語る、主イエスの目指す方向なのではないかと思うのです。

祈り

この世をすべおさめる全能の神!あなたの主権が確かにされますように祈ります。

この世界はあなたによって創造されたものですから、あなたのものです。

この世界を託されている責任への裏切りの罪を告白します。

わたしたちの罪を、底抜けの赦しによって正しい道へと立ち返らせてください。

神の秩序の人間の無秩序との関係が正されますように。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩ませてください。

この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                                  アーメン。

 

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