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2022年3月

2022年3月27日 (日)

マルコによる福音書 9章2~10節 「これに聞け!」

 「わたしの愛する子」である主イエスは、マルコ福音書のあらすじから言えば、今日の聖書の箇書は十字架を見据えているのです。場所はフィリポ・カイサリア地方のどこかの「高い山」であると考えられます。この地方は、8章までの主な活動の場所であるガリラヤ湖の北側に位置します。ここはつまり、一旦ガリラヤ湖周辺から身を引いた場所であることに加えて、南を見渡すと、まずガリラヤ湖、その先ヨルダン川沿いに南に向かっていくとエルサレムがあります。聖書の巻末にある地図を見ていただければイメージが掴みやすいと思います。「山を下り」て目指すべきはエルサレムなのです。当時の社会の歪みが集中している場所だからです。マルコ福音書を通して見ると、826節までがガリラヤでの活動、そこから転換して旅を始めることになります。11章でエルサレムに入り、14章から本格的な受難物語となっていきます。今日の聖書は、先週に続き主イエスの活動の展開地点なのです。具体的な名前よりも、「高い」位置であることに意味があると思われます。この「高い」は、南に向かって今後の歩みを見渡し、見通すことのできる場面設定を意味しているのではないでしょうか。

 読み手に要求されているのは、この主イエスの歩みに対して「これに聞け!」という命令です。今、福音書の告げる「神の子主イエス・キリスト」に対して「これに聞け!」を本気で受け止める勇気があるのか、決断があるのか、という問いかけなのです。主イエスの十字架への道行きに対して決断が弟子たちに迫られているということなのではないでしょうか。栄光に光り輝くキリストの具体的な姿は、十字架刑に至る道行きにおいてしか示されないのだとのマルコ福音書の信仰が表されているように思われます。だからこそ、「これに聞け!」という命令形であり、ここに福音書自体の決断を読むことができるのではないでしょうか。マルコ福音書の文脈にあっては、弟子たちに「無理解の動機」がなくなることはありません。形を変えて何度も弟子の「無理解」が描かれ気づきが求められています。著者は注意深く福音書を読む者が、すでに主イエスの語りかけは始まっていると読み取ることを望んでいます。この呼びかけの言葉は、「無理解」をも乗り越えて語り続けているのです。わたしたちが依って立つべきは「これに聞け!」という主イエス・キリストの言葉と振る舞いとに注意深く耳を澄ませることなのではないでしょうか。

2022年3月20日 (日)

マルコによる福音書 8章27~33節 「イエスの背中に向かって直れ!」

 主イエスはペトロの告白を聞いてサタン呼ばわりしながら「引き下がれ」と𠮟りつけます。これを「私の後ろに直れ」と渡辺英俊牧師が訳しています。そうすると、「前へならえ」のイメージからもう一度主イエスの背中に向かって直れ!と促しているように思われるのです。残念なことにペトロだけでなく弟子たちは、この言葉の意味するところを主イエスの生前には理解できなかったようです。正しい信仰告白である「あなたこそが唯一の救い主です」という言葉は、「主イエスの背中に向かって直れ!」という促しに聞き従うことなしには意味をなさないという戒めの物語なのだと思います。

 この、ペトロの口先だけの信仰告白と比べることのできる物語があります。それは、14章の初めの、いわゆる「ナルドの香油の物語」です。食事の席にやってきた名前も残されていない一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」という事件です。香水は、ほんの一滴でも強く香ります。それを全部ぶちまけたら咽返るほどでしょう。せっかくの食事が台無しです。しかし、主イエスは「するままにさせておきなさい」というのです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と説明しています。油を注ぐことは王の即位の儀式を思い起こさせます。そして同時に埋葬の準備でもあるというのです。こののち十字架にかけられた主イエスの亡骸は、そのまま、油を塗るなどの処理をしないまま墓に収められたことが聖書の記事から分かります。しかし、亡骸に塗る油はすでにここでなされていたとも読めるのです。香油を注ぎかけた女性は、一言も発していません。言葉だけで告白したペトロと対称的です。マルコ福音書は、この女性の香油を注ぐという行動が、主イエスの受難予告の内容に対応した相応しい信仰告白の態度であったことを読者に分からせようとしているように思われます。行いとしての信仰告白を際立たせることで、弟子たちを代表とするペトロの口先だけの信仰告白のあり方を批判しているのでしょう。

 主イエスを「あなたこそが唯一のキリストです」と信じ告白することには、行動や証しという従うことが同時になくてはならないのです。その振る舞いが具体的にどのようなものであるのかについては、その場その場における責任的な<今>の課題に真剣に立ち向かっているときに示されると信じることができるのです。

2022年3月13日 (日)

エフェソの信徒への手紙 6章10~20節 「悪に抗う信仰」

 この手紙の訴えている「神の武具を身に着けなさい」とは、祈り祈り合うところから、自らの人間の正義が正されて神の正義に近づいていく道を示します。そしてさらには、「鎖につながれてい」るような不自由な状況の中にあって「語るべきことは大胆に話せるように」なる道の途上にあることを信じることができるのです。悪に抗う「神の武具」とは、人を傷つけ殺傷していくものではなく、人を喜びに向かって生かしていくものです。囚われの身にある手紙の著者と共鳴するような苦難の中にある人たちが、イエス・キリストによって結ばれていると信じることから始めるのです。わたしとあなた、わたしたちとあなたたち、このような関係の間に主イエスが仲保者として支えていてくださるのです。支配―被支配の関係を生み出す「武具」ではなく、「神の武具」を身に着けるならば、対等なあり方が神からの賜物として与えられるのです。このような関係を育てていくあり方をもって、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」の武装を解除するような平和的な「神の武具を身に着け」ると理解します。イエス・キリストから来る「真理」「正義」「平和の福音を告げる準備」「救い」「霊」という「神の言葉」によって、214節の「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」ていく道が備えられるのだと信じたいのです。

 強さに驕り高ぶる権力者が思うままに勝手な振舞い、弱さに喘ぐものがさらに貶められ痛めつけられていく時代をわたしたちは生きています。「神の武具」から導かれる共鳴、響き合う心が開かれていけば、やがて主イエスの願う世界へと向かう希望が与えられるに違いないと信じ、為すべきことを為していきたいと願います。

 聖書の神は、具体的な人間を道具として用いて、歴史の只中に働きかけてくださる。祈りをもって、このように信じ続けるところにキリスト者の希望は絶えることがなく続き、やがて来るべき日に向かう途上に向かうのでしょう。必要な知恵や語るべき言葉は、その都度に私たち人間の知恵を越えたところからやって来るはずだと信じながら、暗い闇に覆われた苦難の時代を生き延びつつ、前進したいと願います。そのように生きること、それは神の助けとしての「武具」に応じて祈り続けることです。破局の時代であることが切実にでるからこそ、主イエスにおける希望の道をあえて選び取る勇気が与えられることを願います。

2022年3月 6日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「いと小さき者の神」

 善と悪を「羊と山羊」に喩えたことに注目したいと思います。両者はとても似ています。善と悪を二つに明快に分けることはできないということです。また、いずれの立場においても自覚が決定的に欠けています。善の側・悪の側、いずれに対しても問題になっているのは「この最も小さい者の一人」に対しての行い、振る舞いとなります。どちらの側も思い当たる節がないように、この行い、振る舞いの善悪の基準は人の側からの判断の及ばない領域でした。人の判断や考えの枠からは発想できない限界があるのだということです。そして、その違いや差というものは紙一重ほどのものであるからです。この、ほんの僅かな違いを見極め、乗り越えていくポイントが「この最も小さい者の一人」への気づきです。この「この最も小さい者の一人」に対する気づきは紙一重に満たないほどの違いであるのに、全面的な方向付けにとっての決定的な契機なのだというのです。神の側からの決定的な方向付けがここに示されます。解釈の可能性は「この最も小さい者の一人」に対する注目によって示されていく方向性にあります。「この最も小さい者の一人」とは誰のことなのか。これも明確には語られておらず、暗示されているだけです。善人も悪人も「いつ」のことなのかと自分で問いかけても思いもよらないほど理解できないのです。今日の聖書は二種類の人のあり方を示しながら、同時に自分や誰かをどちらかの枠に当てはめるという発想自体を拒んでいます。

 「この最も小さい者の一人」とは、善人の側での文脈では「わたしの兄弟」となっており、悪人の側の文脈では「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とあります。ここでの「兄弟」であり「わたし」と言われているのは、主イエス自身ないしは主イエス的なあり方の人全般を指すと判断できます。

 これは主イエスがどこに目を注いで歩んだのかを示すだけに留まりません。主イエス自身がそもそも誰であったかに関わります。主イエスが上から目線で下に向かって「この最も小さい者の一人」を見つめていたのではないのです。主イエス自身が文字通り「この最も小さい者の一人」ということです本田哲郎神父の著書で紹介されているフリッツ・アイヘンバーグの絵が示すように、主イエスは配食する側ではなく、列に並んでいるのです。わたしもあなたもあの人もこの人も、主イエスの十字架への道行き、その途上での行い、振る舞いに倣う生き方の中へとすでに招かれてしまっているのです。

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