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2022年2月20日 (日)

マタイによる福音書 25章1~13節 「共感する力について」

 今日の聖書は、イエス・キリストを信じる者の今とはどのような在り方なのかが喩によって問いかけられているのではないでしょうか。この問題意識から読み解いていきたいと思います。

 キリスト教はユダヤ教から終末論という理解を受け継いでいます。創世記の創造物語によれば天地を神が創造することで世界ができたとあります。このように神による始まりがあるなら、当然世の終わりがあるだろうと考えられます。この世界が終わりを迎え、神の国がやってくる日が必ずやって来るという考え方です。そこでは永遠の神の支配が完成されるというものです。この、いつやって来るのか知ることのできない終末を迎えるための今を、どのように生きるのかが問われているのです。いわば、終末を射程に置きながら今の生き方や態度を自己検証することが求められているということです。今、わたしたちはどのように生きているかの問い直しを求める喩話であると読みます。

 今日の喩は婚礼の中の一場面です。婚礼とは、新約聖書の他の箇書でも来臨のイエスを念頭に置く読みが要求されています。ですから、花婿である主イエスを迎える態度として読まれる必要があるのです。登場するのは10人の未婚の女性です。当時の結婚式のあり方については、地域性の違いなども考えると色々なあり方があったとは思いますが、一般的にはこんな感じだったようです。花嫁の家に花婿が友人たちと共に迎えに行き、花嫁を伴い街の中で祝福され練り歩きながら、花婿の家に戻ってきて宴会をする。今日の10人の未婚の女性たちは、花婿が花嫁を連れ戻って来たときに、迎えに出る役割だったのでしょう。しかし、練り歩き、いわばパレードですね。パレードに時間が思いの他かかったのでしょう。到着が予定より遅れ、灯を窓辺にでも置いて待っているこの女性たちは皆眠気に負けてしまったのです。真夜中になって花婿が間もなく到着すると告げられ、10人は一斉に跳ね起きて灯をもって迎えに出ます。ところが、長時間つけていた灯は消えかかり、「愚か」と呼ばれる5人は予備の油の用意ができていなくて、「賢い」と呼ばれる女性たちに分けてくれるように頼みます。しかし、余分に持っていないと断られ、買いに行くように言われます。5人が買いに出ている間に花婿の一行は到着し、油を手に入れた5人が戻ってみると、門は固く閉じられ、家に入れません。開けてほしいと頼み込んでも「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」という冷たい言葉を投げかけられてしまうのです。

 さて、5人と5人が「愚か」と「賢い」で比べられています。これは何を意味するのかが様々な解釈によって考えられてきました。「賢い」のはキリスト者で、「愚か」なのはユダヤ人であるという読み方があります。しかし、ここにある「御主人様、御主人様」と2回呼びかけている言葉は721節から23節の使われ方と同じです。それは、

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 ここでの「主よ、主よ」という言葉と「御主人様、御主人様」はギリシャ語の原典では「キュリエ キュリエ」となっています。「主」とか「主人」を表す「キュリオス」の呼びかけとなっています。これからすると10人はすべてキリスト者が表されていると言えるでしょう。

 この話は天の国の喩として語られていますから、この婚礼は終末、世の終わりとして理解できます。つまり、終末である世の終わりを迎えるにあたっての準備の態度が問題であるというのです。終末である世の終わりを前にしてキチンと準備ができているのかという問いかけとなります。当然、期待される答えとしては「賢い」と呼ばれている5人の態度を見習うようにして自らを整えなさいということになります。さらには解釈として、油を信仰として理解して、終末を迎えるに相応しい信仰であれ、という勧めとして読まれることになります。要するに、5人の「賢い」側に自分たちの信仰を整えていきましょう、という話になるわけです。

 しかし、主イエスは、「賢い」と「愚か」ということを、どちらかを選びなさいという〇×式・二者択一問題として喩で示したのでしょうか。単純に「賢い」と「愚か」を比べるだけなら、「賢い」を選べばいいだけの話です。そんな単純なことをわざわざ喩で語る必要があるのでしょうか。もう少し、慎重にテキストに対して当たるべきと思われます。251節では「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。」とあります。ここから考えると、「賢い」とされる5人だけに天の国が喩られているとは、わたしには読めませんでした。これら10人を総合的に読んだ方が良いと思うのです。この10人を55で、どちらかを選ぶということではないのです。「備えあれば憂いなし」ということわざもありますが、備えていること自体は悪いことではありません。しかし、人間という限界ある存在ができうる限りの準備していたとしても「完全」ということはあり得ないのです。準備万端整えていたとしても、予想を超えたアクシデントは起こるのです。

 そこで、次のように読んでみようかと思います。この「賢い」5人と「愚かな」5人を合わせた「花婿を迎えに出て行く」10人をもって、わたしたちなのだと解釈するのです。「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在だと理解するのです。「花婿と一緒に婚宴の席に入」ることができる「賢い」女性たちも、締め出されてしまう「愚かな」女性たちも、そのどちらの両面もあるということです。つまり、終末、世の終わりを目前にしているキリスト者の現実とは、婚礼の席に招かれていると同時に婚礼から締め出されているという、一見矛盾した存在なのだということです。救われていると同時にさばかれており、さばかれると同時に救われているということです。この二面性は、プロテスタントの伝統的理解である「赦された罪人」という言葉を思い起こせば、わたしたちになじみ深い理解です。そして、この現実を深く見極めよ、という発想へとつながっていくのです。限界ある人間は、来るべき終末、世の終わりに向かって歩む日々の暮らしにおいて、準備できていることもあるでしょうし、できていないこともあるでしょう。10人の「賢さ」と「愚かさ」の違いは必要な油を用意していたか否かということです。ついウッカリというレベルと大きな違いはありません。このような「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在として、それでも花婿である主イエスの来臨に備えつつ、今をキチンと見据えながら確実に暮らしていけばいいという招きとして読むことへと導かれるのではないでしょうか。ついウッカリということは、誰にでも十分あり得ます。それでも「賢さ」を諦めないでいられるように心を備えておけばいいのです。今を大切にするとはそういうことです。ヒントになりそうな態度への共鳴を、アップル社設立者のスティーブ・ジョブズの言葉に感じました。彼は様々な宗教思想に触れたことがあるようです。もちろんキリスト教の影響もあると思われますので、二つ紹介します。①「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」②「毎日を人生最後の日だと思って生きれば、いつか必ずその日は来るだろう。」

 今日の聖書の示す10人のあり方は、パウロのフィリピの信徒への手紙に読み取ることもできます。310節以下です。

 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 特に注目すべきは12節です。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」とあります。このパウロの視座には、来るべき日を目前にした「賢さ」と「愚かさ」が同居しているわたしという存在の今が言い表されています。終末、世の終わりを目前に想定することによって今野自分のあるべき姿が規定されていくということです。

 キチンとしていてもズッコケていたとしても全体としてあるがままの<わたし>の存在を招かれている存在として受け入れることさえできていれば、何一つ問題がないということです。5人の「賢さ」そして5人の「愚かさ」を併せ持つのがわたしたちキリスト者の今なのだということです。人が生かされている今という時は、いつだって終末、世の終わりに直面しているのだということです。今日と同じように約束された明日があるわけではありません。今日の聖書に登場する5人と5人の姿に、今を生きることに「賢さ」と「愚かさ」の間で揺れ動きながらも今日生かされている現実に共鳴していることを認めていくことです。わたしだけじゃない、わたしもそうだと思えることです。ボチボチであること。50100歩であることを認めていけば共鳴へと向かいます。そうすれば、自分の「賢さ」で他者の「愚かさ」を裁くことから自由にされていきます。また、他者の「賢さ」から自分の「愚かさ」について卑屈になる必要もなくなるのです。このような関係を整えていくことへと共鳴の物語が喩として語られているのです。ここから、自分に対しても他者に対しても自由な生き方はできるようになれる、この約束が喩として語られているのです。この、喩を語る主イエスが天の国としての神の支配へと招き続けているのでしょう。この招きにもとで今日を生きる力が主イエスにある共鳴のもと、守られていることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

いのちの源である神!

主イエス・キリストが天の国へと招く力にあふれた方であると信じます。

「賢さ」も「愚かさ」も、またその間に揺り動く、そのようなわたしたちです。

主イエスの招きに委ねつつ歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。                                                                                                                                                          アーメン。

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