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2022年1月 2日 (日)

マタイによる福音書 13章24~30節 「待つことを学びつつ」

 天の国のたとえ話です。良い麦の種を蒔いたところ、芽が出て成長すると毒麦も現れた。敵がこっそり毒麦の種を蒔いていったからです。毒麦を抜き集めましょうかと問う僕たちに主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と答えたとあります。

 聖書の言いたいことは、教会内の相手に向けて安易に善悪を判断することはやめておこうということです。その人が善であるのか悪であるのかの判断は、そもそも人間のすることではないということです。もちろん、人ではなく悪事に対して正したり修正したりすることは必要です。しかし、それでも善悪の判断の前提とされている考え方の物差しが間違っている可能性もありますから注意が必要でしょう。その時々の風潮や力ある人たちに対する忖度の問題や長いものに巻かれろ式の判断も働くことがあるのです。ですから、早急に判断するのではなく、神の語りかけを待つことを学ぶ必要があります。このことは単に何もしないことではなく、無関心とも違います。察し、考え続けることが必要です。イエス・キリストを根拠にして、教会における関係性において安易に善悪を判断しないようにとの警告として受け止めることができるように思われます。それは、社会における関係性の判断にも広がりゆくものです。

 教会に集う一人ひとりも、育ちゆく麦と同じように生きており成長を続けています。この成長が主イエス・キリストの言葉に促され導かれているのかを絶えず確認していくことが大切です。早期に毒麦を見つけて排除するよりも、お互いの成長を待ち合う態度を失うことなく歩む教会でありたいと思います。ここに教会が立ちもすれば倒れもする重大な事柄があるのだと今日の聖書は告げているのではないでしょうか。神に任せるべき事柄と人間の分を弁えることの区別をきちんと行うことのできる知恵を祈り求めたいと思います。簡単・便利を追求する現代にあって、「待つ」ことはなかなか困難です。一度立ち止まれとの促しのもとで、待つことを学ぶことには根気、忍耐が必要です。しかし、主イエスの言葉から離れることがなければ成し遂げられるのだと信頼していくことによってなされるのだとの読みもできるはずなのです。

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