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2022年1月23日 (日)

マタイによる福音書 18章21~35節 「自分を見つめ直してみれば」

 何回赦せばいいのかについてペトロは7回でいいのかと主イエスに問います。主イエスは、その70倍をと答えます。「7」は「何度も」を意味する完全数ですから、ペトロという人間の側から精一杯の「赦し」の意気込みを表します。しかし、主イエスは、そうではなくて人間では計り知ることのない、限界が突破されている「赦し」を語るのです。このあり方こそが赦しの事態なのです。一切の条件付けから自由にされて、人が今ここで生かされてあることいることを、主イエスは生き方すべてによって知らせたのではないでしょうか。この、底が抜けるような主イエス・キリストの赦しに与っているという事実からこそ、初めて自分を見つめ直すことができ、そこから他の人に対する「赦し」の姿勢が整えられるはずだというのが今日の聖書のテーマであるように思われます。まず、主イエス・キリストの底が抜けるような赦しの事実に与ることなくして、他の人に対する「赦し」や「赦し合い」は起こりえないのだということです。中心はまず、主イエス・キリストという「赦し」としての神の意志にあるのだということです。

 しかし、それでも人間の実際はそんなに神の思いを真っすぐに受け止めて理解していないのです。そのことを畳み込むようにして23節以下でたとえが語られているのです。人間の現実は、このように罪の赦しが「借金の帳消し」として語られています。

 主イエス・キリストの「赦し」に与っているゆえにこそ、他の人に対する接し方が整えられる方向があることが知らされます。このように定められていれば、他の人に対しても、あの人もまたわたしと同じように主イエスによって無条件の「赦し」に与っていることへと気づきが与えられるのです。そうすれば、接し方が変わって来るのではないでしょうか。ただ、ここでの他の人に対する「赦し」とは、なあなあの関係にしてしまうことや問題点を不問にしてしまうことではありません。同じように主イエス・キリストの「赦し」のもとにある者同士であること、しなわち「対等」であることから接していくことができるようになるということです。上下関係や力関係ではなくて、事柄における平等さにおいて自由に対話していけるということです。相手の存在自体が主イエスによって無条件に認められているお互いであることを前提にしていけるということです。主イエス・キリストの「赦し」のもとにあるがゆえに、他の人に対して、どうしたらいいのか、という課題の前での基本的な態度が整えられていくのではないでしょうか。

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