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2022年1月 9日 (日)

マタイによる福音書 13章44~46節 「人生の価値」

 「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。「宝」と「真珠」はいずれも非常に価値の高いものとして引き合いに出されており、すべての人間が買い取られている状態が天の国のたとえとなっています。イエス・キリストという代価をもって神はわたしたちを買い取ってくださるのだと語りながら、すべての人間が「宝」であり「真珠」であると読み手に伝えたいと願っているのです。つまり、見出される人間の人生の価値の素晴らしさを述べているのです。

 イエス・キリストは、祭司長や律法学者たちからすれば銀貨30枚の価値しかないと判断されたのですが、神は、このイエス・キリストをもって、すべての人間を買い取る代価とされたのです。値段のつけられないほどの贈り物として十字架の出来事によって罪の赦しというとてつもない贈り物を差し出したのです。わたしたちの存在すべては神の所有とされているのですから、神はわたしたちが神の思いに生きることを求めておられます。

 このイエス・キリストにおける神の思いを受けて歩むことは、パウロの生き方と共鳴しています。神から買い取られた人生を神にささげつつ全生涯を賭けることには価値があるからです。取るに足らないわたしたちが、すでに「宝」や「真珠」のような価値ある人生を歩んだキリスト者たちの歴史は2000年来続いており、わたしたちも教会を通じて連なっています。この代表の一人としてパウロの自覚に従えば、コリントの信徒への手紙一 6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」となります。わたしたちは、イエス・キリストが代価を支払ってくださったがゆえの「宝」であり「真珠」として、立たされています。この促しに応えていくことは信じ従うことに他なりません。

 イエス・キリストの尊さについて言い尽くすことは人間には不可能です。お金で換算することなどできません。このイエス・キリストによって買い取られたすべての人間の人生は、パウロにおいてそうであったように教会の内側だけに留められているだけでは不十分です。信じ従う中で、新しい出会いを求めていく歩みへと導かれるものだからです。

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