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2022年1月16日 (日)

マタイによる福音書 13章51~52節 「古いもの・新しいもの」

 聖書の解釈には完全な正解が存在せず、「とりあえず」という限界があります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。】と51節にありますが、続く物語において主イエスの逮捕から十字架刑の場面では逃げてしまったことからすれば、弟子たちの「分かりました」という言葉の疑わしさを否定することはできません。しかし、「分かりました」と言えるに至ることの限界を知りつつ、信じることと聖書から学ぶことをより深めていきたいのです。

 聖書を自分で読んで学ぶことへの提案というかお誘いとして、今日の聖書を読むことができるのではないでしょうか。現代社会に暮らすわたしたちは一人静かに聖書と向かい合う時間を持つことは難しいかもしれません。それでも、聖書に向かい合い、そこから示される主イエス・キリストの言葉と出会いたいと願うのです。伝えられた良き知らせとしての神の言葉は、わたしたちに向かってすでに語られています。わたしたちは、それを開かれた聖書として受け止め、これに応えていく態度であればいいのだと思います。

 聖書は、細かく読んでいくと矛盾だらけで統一観などありません。だから解釈に幅が出ます。聖書は信じるものであって批判的に解釈したり学んだりするものではないという意見も少なくないことは承知しています。しかし、福音書の主イエス自身、旧約聖書を批判的に読んでいたことが山上の説教の態度から分かります。「あなたがたも聞いているとおり、〇○と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」という仕方で神の思いを展開されたのです。この主イエスの旧約に対する態度は、わたしたちが聖書を読む方向を示していると思われます。

 この主イエスの態度から今日の聖書を読むならば、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」が示すのは、古いものは価値ありとか新しいものに力があるとかいう頑なさではなく、もっと自由で、より豊かな生き方で聖書に向かう、ということではないでしょうか。マタイ福音書が言いたいことは、旧約の流れを引き継ぎながら自由に喜ばしく、聖書に親しみながら歩む人生っていいものだ、ということかもしれません。わたしたちも、柔らかい心と体で聖書に向き合い、そこから示されていきたいと思います。

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