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2022年1月

2022年1月30日 (日)

ルカによる福音書 4章1~12節 「イエスの試練~神は何を望むのか?」 井谷 淳

 この箇所にてイエスは、分かりやすく「荒野」という場所に身を置きます。時系列に沿って聖書を読むとその直前に洗礼を受けていますが、「聖霊」に満たされていた状況の中で、伝道者として自分自身に欠落していた内面的世界への検証の必要性を強く感じたのでありましょう。聖書の中での「荒野」という場所は神から最も離れた場所、神から見捨てられてしまった場所であります。イエスが処刑されたゴルゴダの丘もまた、そのような神の恩恵から外されてしまった場所でありました。最も荒廃した場所にて霊によって引き回されている中でイエスは自分自身の様々な「弱さ」を認識し、その内的な欺瞞性と対峙していかざるを得ない状況がもたらされたのであります。本日の箇所で頻出する「悪魔」の存在はイエス自身が抱える「もう一人の自分自身」であり、神に換わってイエス自身の信仰の対象を乗り換えさせようと何度も試むのであります。「罪」の根幹には必ず「誘惑」が存在いたします。悪魔はその「誘惑の引き金」に指をかけさせる存在である事をイエスは熟知していました。洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、伝道者としての意識が高まっていたイエスは未だ自己の内的世界にこの[誘惑]が多く存在し続けている事を、霊によって告げ知らされてしまったのであります。この「誘惑」が「弱さ」であり、「欺瞞」であります。そして「誘惑」の内容は宗教者として影響力を持つであろう自分自身への期待感、物理的に奇跡を起こすことの出来る「自己能力の乱用」、世の在り方を操作し、支配力を持つという「虚栄心」及び「自己承認欲求」、神殿という宗教象徴の上に立つという「自己顕示欲求」等々であります。これらの事柄がイエスの内的欲求として存在していた事を、イエス自身が明確に認識してしまったのであります。

 イエス自身が一つ間違えれば、誘惑の引き金を引き「罪」へのハードルを越えてしまう、否自分のような者こそが、「罪」を容易に犯してしまう事をも同時に認識してしまったのであります。或いはこのような誘惑を抱えている自分自身を既に「罪人」であると規定してしまった可能性もあるのではないでしょうか。聖書中に「罪人との宴」、「罪の無い者から石を投げよ」等の場面の中でイエスは罪人に寄り添う存在ではありません。イエスもまた罪人であったのです。現代社会の「荒野」の中で罪人イエスは罪人である私達と今も共にあるのです。

2022年1月23日 (日)

マタイによる福音書 18章21~35節 「自分を見つめ直してみれば」

 何回赦せばいいのかについてペトロは7回でいいのかと主イエスに問います。主イエスは、その70倍をと答えます。「7」は「何度も」を意味する完全数ですから、ペトロという人間の側から精一杯の「赦し」の意気込みを表します。しかし、主イエスは、そうではなくて人間では計り知ることのない、限界が突破されている「赦し」を語るのです。このあり方こそが赦しの事態なのです。一切の条件付けから自由にされて、人が今ここで生かされてあることいることを、主イエスは生き方すべてによって知らせたのではないでしょうか。この、底が抜けるような主イエス・キリストの赦しに与っているという事実からこそ、初めて自分を見つめ直すことができ、そこから他の人に対する「赦し」の姿勢が整えられるはずだというのが今日の聖書のテーマであるように思われます。まず、主イエス・キリストの底が抜けるような赦しの事実に与ることなくして、他の人に対する「赦し」や「赦し合い」は起こりえないのだということです。中心はまず、主イエス・キリストという「赦し」としての神の意志にあるのだということです。

 しかし、それでも人間の実際はそんなに神の思いを真っすぐに受け止めて理解していないのです。そのことを畳み込むようにして23節以下でたとえが語られているのです。人間の現実は、このように罪の赦しが「借金の帳消し」として語られています。

 主イエス・キリストの「赦し」に与っているゆえにこそ、他の人に対する接し方が整えられる方向があることが知らされます。このように定められていれば、他の人に対しても、あの人もまたわたしと同じように主イエスによって無条件の「赦し」に与っていることへと気づきが与えられるのです。そうすれば、接し方が変わって来るのではないでしょうか。ただ、ここでの他の人に対する「赦し」とは、なあなあの関係にしてしまうことや問題点を不問にしてしまうことではありません。同じように主イエス・キリストの「赦し」のもとにある者同士であること、しなわち「対等」であることから接していくことができるようになるということです。上下関係や力関係ではなくて、事柄における平等さにおいて自由に対話していけるということです。相手の存在自体が主イエスによって無条件に認められているお互いであることを前提にしていけるということです。主イエス・キリストの「赦し」のもとにあるがゆえに、他の人に対して、どうしたらいいのか、という課題の前での基本的な態度が整えられていくのではないでしょうか。

2022年1月16日 (日)

マタイによる福音書 13章51~52節 「古いもの・新しいもの」

 聖書の解釈には完全な正解が存在せず、「とりあえず」という限界があります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。】と51節にありますが、続く物語において主イエスの逮捕から十字架刑の場面では逃げてしまったことからすれば、弟子たちの「分かりました」という言葉の疑わしさを否定することはできません。しかし、「分かりました」と言えるに至ることの限界を知りつつ、信じることと聖書から学ぶことをより深めていきたいのです。

 聖書を自分で読んで学ぶことへの提案というかお誘いとして、今日の聖書を読むことができるのではないでしょうか。現代社会に暮らすわたしたちは一人静かに聖書と向かい合う時間を持つことは難しいかもしれません。それでも、聖書に向かい合い、そこから示される主イエス・キリストの言葉と出会いたいと願うのです。伝えられた良き知らせとしての神の言葉は、わたしたちに向かってすでに語られています。わたしたちは、それを開かれた聖書として受け止め、これに応えていく態度であればいいのだと思います。

 聖書は、細かく読んでいくと矛盾だらけで統一観などありません。だから解釈に幅が出ます。聖書は信じるものであって批判的に解釈したり学んだりするものではないという意見も少なくないことは承知しています。しかし、福音書の主イエス自身、旧約聖書を批判的に読んでいたことが山上の説教の態度から分かります。「あなたがたも聞いているとおり、〇○と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」という仕方で神の思いを展開されたのです。この主イエスの旧約に対する態度は、わたしたちが聖書を読む方向を示していると思われます。

 この主イエスの態度から今日の聖書を読むならば、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」が示すのは、古いものは価値ありとか新しいものに力があるとかいう頑なさではなく、もっと自由で、より豊かな生き方で聖書に向かう、ということではないでしょうか。マタイ福音書が言いたいことは、旧約の流れを引き継ぎながら自由に喜ばしく、聖書に親しみながら歩む人生っていいものだ、ということかもしれません。わたしたちも、柔らかい心と体で聖書に向き合い、そこから示されていきたいと思います。

2022年1月 9日 (日)

マタイによる福音書 13章44~46節 「人生の価値」

 「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。「宝」と「真珠」はいずれも非常に価値の高いものとして引き合いに出されており、すべての人間が買い取られている状態が天の国のたとえとなっています。イエス・キリストという代価をもって神はわたしたちを買い取ってくださるのだと語りながら、すべての人間が「宝」であり「真珠」であると読み手に伝えたいと願っているのです。つまり、見出される人間の人生の価値の素晴らしさを述べているのです。

 イエス・キリストは、祭司長や律法学者たちからすれば銀貨30枚の価値しかないと判断されたのですが、神は、このイエス・キリストをもって、すべての人間を買い取る代価とされたのです。値段のつけられないほどの贈り物として十字架の出来事によって罪の赦しというとてつもない贈り物を差し出したのです。わたしたちの存在すべては神の所有とされているのですから、神はわたしたちが神の思いに生きることを求めておられます。

 このイエス・キリストにおける神の思いを受けて歩むことは、パウロの生き方と共鳴しています。神から買い取られた人生を神にささげつつ全生涯を賭けることには価値があるからです。取るに足らないわたしたちが、すでに「宝」や「真珠」のような価値ある人生を歩んだキリスト者たちの歴史は2000年来続いており、わたしたちも教会を通じて連なっています。この代表の一人としてパウロの自覚に従えば、コリントの信徒への手紙一 6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」となります。わたしたちは、イエス・キリストが代価を支払ってくださったがゆえの「宝」であり「真珠」として、立たされています。この促しに応えていくことは信じ従うことに他なりません。

 イエス・キリストの尊さについて言い尽くすことは人間には不可能です。お金で換算することなどできません。このイエス・キリストによって買い取られたすべての人間の人生は、パウロにおいてそうであったように教会の内側だけに留められているだけでは不十分です。信じ従う中で、新しい出会いを求めていく歩みへと導かれるものだからです。

2022年1月 2日 (日)

マタイによる福音書 13章24~30節 「待つことを学びつつ」

 天の国のたとえ話です。良い麦の種を蒔いたところ、芽が出て成長すると毒麦も現れた。敵がこっそり毒麦の種を蒔いていったからです。毒麦を抜き集めましょうかと問う僕たちに主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と答えたとあります。

 聖書の言いたいことは、教会内の相手に向けて安易に善悪を判断することはやめておこうということです。その人が善であるのか悪であるのかの判断は、そもそも人間のすることではないということです。もちろん、人ではなく悪事に対して正したり修正したりすることは必要です。しかし、それでも善悪の判断の前提とされている考え方の物差しが間違っている可能性もありますから注意が必要でしょう。その時々の風潮や力ある人たちに対する忖度の問題や長いものに巻かれろ式の判断も働くことがあるのです。ですから、早急に判断するのではなく、神の語りかけを待つことを学ぶ必要があります。このことは単に何もしないことではなく、無関心とも違います。察し、考え続けることが必要です。イエス・キリストを根拠にして、教会における関係性において安易に善悪を判断しないようにとの警告として受け止めることができるように思われます。それは、社会における関係性の判断にも広がりゆくものです。

 教会に集う一人ひとりも、育ちゆく麦と同じように生きており成長を続けています。この成長が主イエス・キリストの言葉に促され導かれているのかを絶えず確認していくことが大切です。早期に毒麦を見つけて排除するよりも、お互いの成長を待ち合う態度を失うことなく歩む教会でありたいと思います。ここに教会が立ちもすれば倒れもする重大な事柄があるのだと今日の聖書は告げているのではないでしょうか。神に任せるべき事柄と人間の分を弁えることの区別をきちんと行うことのできる知恵を祈り求めたいと思います。簡単・便利を追求する現代にあって、「待つ」ことはなかなか困難です。一度立ち止まれとの促しのもとで、待つことを学ぶことには根気、忍耐が必要です。しかし、主イエスの言葉から離れることがなければ成し遂げられるのだと信頼していくことによってなされるのだとの読みもできるはずなのです。

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