ルカによる福音書 4章1~12節 「イエスの試練~神は何を望むのか?」 井谷 淳
この箇所にてイエスは、分かりやすく「荒野」という場所に身を置きます。時系列に沿って聖書を読むとその直前に洗礼を受けていますが、「聖霊」に満たされていた状況の中で、伝道者として自分自身に欠落していた内面的世界への検証の必要性を強く感じたのでありましょう。聖書の中での「荒野」という場所は神から最も離れた場所、神から見捨てられてしまった場所であります。イエスが処刑されたゴルゴダの丘もまた、そのような神の恩恵から外されてしまった場所でありました。最も荒廃した場所にて霊によって引き回されている中でイエスは自分自身の様々な「弱さ」を認識し、その内的な欺瞞性と対峙していかざるを得ない状況がもたらされたのであります。本日の箇所で頻出する「悪魔」の存在はイエス自身が抱える「もう一人の自分自身」であり、神に換わってイエス自身の信仰の対象を乗り換えさせようと何度も試むのであります。「罪」の根幹には必ず「誘惑」が存在いたします。悪魔はその「誘惑の引き金」に指をかけさせる存在である事をイエスは熟知していました。洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、伝道者としての意識が高まっていたイエスは未だ自己の内的世界にこの[誘惑]が多く存在し続けている事を、霊によって告げ知らされてしまったのであります。この「誘惑」が「弱さ」であり、「欺瞞」であります。そして「誘惑」の内容は宗教者として影響力を持つであろう自分自身への期待感、物理的に奇跡を起こすことの出来る「自己能力の乱用」、世の在り方を操作し、支配力を持つという「虚栄心」及び「自己承認欲求」、神殿という宗教象徴の上に立つという「自己顕示欲求」等々であります。これらの事柄がイエスの内的欲求として存在していた事を、イエス自身が明確に認識してしまったのであります。
イエス自身が一つ間違えれば、誘惑の引き金を引き「罪」へのハードルを越えてしまう、否自分のような者こそが、「罪」を容易に犯してしまう事をも同時に認識してしまったのであります。或いはこのような誘惑を抱えている自分自身を既に「罪人」であると規定してしまった可能性もあるのではないでしょうか。聖書中に「罪人との宴」、「罪の無い者から石を投げよ」等の場面の中でイエスは罪人に寄り添う存在ではありません。イエスもまた罪人であったのです。現代社会の「荒野」の中で罪人イエスは罪人である私達と今も共にあるのです。
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