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2021年12月 5日 (日)

マルコによる福音書 7章1~13節 「神の言葉の新しさ」

 本日の聖書がアドベントの時期に読まれるべき箇書として指定されたことの意味を考えるならば、「排除の否定」ではないでしょうか。ここで主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちが強いる、生きる価値のある「期待される人間像」や、そこから一歩でも外れたら「罪人」とされ社会から排除されていく仕組み、これが神の望まれていることなかを問われたのではないでしょうか。いのちに対して条件や資格を当てはめるのは間違っているということでした。いのちにおいては、ファリサイ派や律法学者たちも「罪人」と呼ばれる人も、水平なのだという生き方を主イエスは選び取ったのでした。ですから、理不尽な宗教的な慣習に対して批判的に、あるいは皮肉をもって立ち向かったのでした。当然、彼ら主イエスに敵対する勢力の背後にはローマの権力が控えていますから、主イエスはこの世の秩序を脅かす危険人物として断罪され、十字架へと歩まなければならなくなるのです。

 飼い葉桶という低みに生まれ、小さく弱くされている者とともに歩まれた主イエスが生まれたことを記念するクリスマスの根っこには、十字架があるのです。ここにこそ、喜ばしさがあることを強調したいのです。

 クリスマスは確かに毎年巡ってきます。しかし、それはただの繰り返しではなく、「神の言葉が人となる」という事実に対する謙虚さに立ち返るための新しい訪れなのです。この点からブレないことを心に刻みながらアドベントを過ごしたいと思います。街角のクリスマスの賑わいを笑い飛ばしたり、軽蔑したりする必要はありません。わたしたちはわたしたちに求められている祝いに忠実であればいいのです。

 クリスマスは、固定化された記念日ではありません。常に新しく生まれる主イエスによって、自己検証していくための鏡のような働きを持つものです。飼い葉桶の主イエスは、いかに生きるべきなのか、どのように生きていくのが神の前に相応しいのか、そしてあなたはどこにいるのか、と問いかけてきます。クリスマスとは、飼い葉桶から十字架、そして復活から照らし出される主イエス・キリストの誕生を記念することです。主イエスの生き方や語りかけと歩み抜きに受け取ることのできないものです。主イエスがこの世に生まれてきた出来事を祝うのであれば、誰と共に分かち合う、新しい出来事なのかが明らかにされるのではないでしょうか。

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