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2021年12月

2021年12月26日 (日)

詩編150 「賛美するという生き方」

 『詩編』は150の詩が集められており、今日の詩はその最後を飾るものです。様々な楽器を用いて晴れやかに歌い上げている姿が思い起こされます。まとめの6節は「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」とあります。命あるものはすべて神に向かって賛美するように定められており、そこには感謝があるのだと呼びかけているようでもあります。

 「賛美するという生き方」とは、ただ単に神が素晴らしいとの告白ではありません。自分たち自身の言葉に誇りをもち、自分らしい生き方を肯定的に捉えることによって、あるがままの姿で自信を失うことなく堂々と他者に向かい合える存在に変えられていくことです。肯定されていることを受け入れていく生き方と態度を賛美と呼んでいいのではないでしょうか。賛美に生きるとは、神に対して受け身であることから導かれる積極性と主体性に生きるということです。神からの光によって照らし出された人間の闇である自己中心の在り方や我儘や傲慢さから解放され、自由になっていく、この時に口から溢れ出す歌こそが賛美するということなのではないでしょうか。賛美とは、神の前にあって、神に応えて新しく生きるための決断であり告白であり祈りです。平和と正義を喜ぶ人間になっていく道の途中にいることが大切なのです。神からの呼びかけに応える賛美は、他者や社会に向かう関係を創り出す力を導き出していくものでもあります。

 この世界は政治の低迷や不安定な経済状況など様々な問題や課題が山のように積もっている事実を否定することはできません。賛美なんていう吞気で悠長な生き方などできるものか、という声も聞こえてきそうです。しかし、キリスト者は、だからこそあえて賛美するのです。賛美するという生き方は激しい生き方であるという側面も持っています。反戦運動や革命が歌と共にあった/あるように。

 この世の価値観や基準からすれば世界は「一寸先は闇」だとしか言えないような状況なのでしょう。しかし、神が聖書から語りかけていることに耳を傾けるならば、「一寸先は光」だと信じることができるのです。苦難や試練を見て見ぬふりをしたり、ごまかしたりすることではありません。これから先のことはどうなるのか、まったく予測できないのが現代の状況です。しかし、だからこそ今、あえて賛美する生き方を選び取る自由が備えられていることへの感謝をもって歩めばいいのではないでしょうか。

2021年12月24日 (金)

マタイによる福音書 1章18~25節 「イエスはここに」

 天使が夢でヨセフに現れて、「マリヤが男の子を生む。イエスと名付けなさい」また「その名はインマヌエルと呼ばれる「神は我々と共におられるという意味である」と語られています。名前はイエスなのだけれども、その中身にはインマヌエルという意義が込められているということになります。イエスにも意味があります。「神は救い」という意味です。神の御子がイエスでありインマヌエルであるということは、神は我々と共にいる、それが救いなのだということです。

 イエスの説教を聞いていた人たちの多くは、社会的な弱者でした。当時のユダヤ教の掟を守れない・守らないがゆえに「罪人」として断罪されていたり、軽蔑され抑圧され差別されていた人たちでした。主イエスは、今、生きていること自体が重荷であり苦痛であり、つらさの極みへと強いられた人たちのいのちこそが、一切の条件なしにそのままでOKとされているのだとの宣言を行ったのです。本当の友となり仲間となることを、神が共にいることの実践としてなされたのです。病気の人を癒し、貧しい人や孤独な人と一緒に食事をしました。生きていることはそれだけで神からの祝福なのだから、そのことをお互いに喜び合う、そのような生き方へと導くものでありました。

 当時は極めて格差社会であり差別社会でしたから、水平社会を目指すイエスは宗教的権力者たちやローマ帝国の勢力から、危険人物だとされたのも当然のことです。イエスの姿勢は、人のいのちを圧迫する勢力に対して抗うことになり、結果十字架刑に処せられることになったのです。しかし、殺されても三日目によみがえり本当の救い主として立ち続けておられる方が、イエス・キリストなのです。

 マタイによる福音書の最後は「 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締められています(28:20)。誕生から復活後まで、イエスは共にいてくださることを貫かれていきます。誰一人として孤独のままで捨てておくことはなさらないのです。わたしたちが、いつどこにいようとも、またどのような状況に置かれていようとも共にいることを決してやめることがないのです。わたしたちが自覚するとかしないにかかわらず、一緒にいることを祝福しつつ喜んでくださる方です。今のあなたがそのあるがままの姿でOKだと宣言し、受け入れてくださったのです。このことを事実として受け止めるのか拒むのかは自由です。しかし、それでもイエスは今年も、わたしたちと共にいてくださることを目指して生まれてくださるのです。ここにイエスはここに確かに臨んでおられることを喜ぶクリスマスの祝福があることを信じましょう。

2021年12月 5日 (日)

マルコによる福音書 7章1~13節 「神の言葉の新しさ」

 本日の聖書がアドベントの時期に読まれるべき箇書として指定されたことの意味を考えるならば、「排除の否定」ではないでしょうか。ここで主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちが強いる、生きる価値のある「期待される人間像」や、そこから一歩でも外れたら「罪人」とされ社会から排除されていく仕組み、これが神の望まれていることなかを問われたのではないでしょうか。いのちに対して条件や資格を当てはめるのは間違っているということでした。いのちにおいては、ファリサイ派や律法学者たちも「罪人」と呼ばれる人も、水平なのだという生き方を主イエスは選び取ったのでした。ですから、理不尽な宗教的な慣習に対して批判的に、あるいは皮肉をもって立ち向かったのでした。当然、彼ら主イエスに敵対する勢力の背後にはローマの権力が控えていますから、主イエスはこの世の秩序を脅かす危険人物として断罪され、十字架へと歩まなければならなくなるのです。

 飼い葉桶という低みに生まれ、小さく弱くされている者とともに歩まれた主イエスが生まれたことを記念するクリスマスの根っこには、十字架があるのです。ここにこそ、喜ばしさがあることを強調したいのです。

 クリスマスは確かに毎年巡ってきます。しかし、それはただの繰り返しではなく、「神の言葉が人となる」という事実に対する謙虚さに立ち返るための新しい訪れなのです。この点からブレないことを心に刻みながらアドベントを過ごしたいと思います。街角のクリスマスの賑わいを笑い飛ばしたり、軽蔑したりする必要はありません。わたしたちはわたしたちに求められている祝いに忠実であればいいのです。

 クリスマスは、固定化された記念日ではありません。常に新しく生まれる主イエスによって、自己検証していくための鏡のような働きを持つものです。飼い葉桶の主イエスは、いかに生きるべきなのか、どのように生きていくのが神の前に相応しいのか、そしてあなたはどこにいるのか、と問いかけてきます。クリスマスとは、飼い葉桶から十字架、そして復活から照らし出される主イエス・キリストの誕生を記念することです。主イエスの生き方や語りかけと歩み抜きに受け取ることのできないものです。主イエスがこの世に生まれてきた出来事を祝うのであれば、誰と共に分かち合う、新しい出来事なのかが明らかにされるのではないでしょうか。

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