マルコによる福音書 4章26~29節 「育てるのは神」
主イエスの姿勢は、たとえば農作物についての態度から分かる楽観性にあると思います。それが今日の聖書の箇書です。農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育っていくのだというのです。主イエスは大工仕事をしていたと言われていますが、農民の日々の暮らしぶり、種を蒔く前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒を見るという大変さを知らなかったはずがないのです。にもかかわらず放っておけば育って実りをもたらすと言い切るのです。ここには、蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、放っていたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性が見られます。
この楽天性をお気楽とか、ものを考えない愚かさだと勘違いすべきではなりません。楽天性から現実の厳しさを見据えて、そしてより喜ばしい生き方への可能性を広げていくイメージへと導かれていくものだからです。現代日本の住宅街で祝う収穫感謝は、直接的に農作物というよりは、生活困窮の問題として浮かび上がってきます。持てる者と持たざる者という図式の中でわたしたちは何を為すべきなのか。
主イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うということです。主イエスのおおらかさに倣うことです。
やがて来るべき日には、神の前での絶対平等な世界がやって来るのだから、その姿を心に刻むことから今を照らし出していけば、為すべきことを理解し、実行していく在り方へと導かれていくのではないでしょうか。楽観に支えられた現実認識から委ねていくことへと歩むことができるはずなのです。主イエスは十字架直前に次のように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。神に委ねるということは、何もしなくていい、ということでは決してありません。全面委任であるからこそ、為すべきことを為していく責任を負うことができるのです。主イエスの楽観性に与っていくならば別の事柄に変えられていくことを信じることはできるのです。
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