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2021年11月 7日 (日)

創世記 2章4後半~7節 「人のいのちは神から」~永眠者記念

 わたしたちは、それぞれ愛する人・親しい人をイエス・キリストの神のもとにお届けしました。お一人おひとりを覚えつつ、この世の死後のいのちを慈しみ守り抜く神に対する信頼をご一緒に新たにしたいと願っています。 今日は、わたしたち今生かされていることから故人を思い出しながら、いのちについて考えたいと思っています。そのために、旧約聖書の最初にある創世記の人が神によって造られたという神話を読みました。これは神話であり、現代人からすれば荒唐無稽な物語と受け止められえても無理はないと、わたしも思います。しかし、神話という表現でなければ描けない<本当>があるはずだとの前提でお話しします。

 簡単にテキストをおさらいしてみます。創世記1章から2章の初めの部分で神が天地を六日で創造され七日目に休まれたとあります。創られた世界は「見よ、極めて良かった」とされます。神が良きものと判断されたのです。人の創造も良きことの文脈として理解することができます。7節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。新共同訳によれば括弧書きで土と人とが、それぞれアダマとアダムと書かれています。要するに土も人も本質において大して変わらないものであることの表明となっています。人が人であるのは、その土の塊に神の息が吹き入れられてはじめて<いのち>あるものとされるのであって、神によらなければ、人は土の塊のままであるような存在なのだというのです。

 神の息によってのみ人は生きるものとされたという信仰は、現代人が<いのち>を思いのままに扱ってもいいという思い上がりに対して警告を与えるものです。人は、<いのち>を自らの知恵や知識、また技術によって創り出すことはできないのだし、してはならない神の領域に属するのだと考えるべきです。

 人の<いのち>とは自分の持ち物では決してあり得ないと、わたしは思います。この世の<いのち>も、やがてわたしたちが向かう神の国での<いのち>にしても、神のものだと信じているからです。わたしたちの<いのち>は神から預かった借りものとしての尊さのあるものだと考えるのです。旧約聖書の中での非常に重要な教えに十戒というものがあります。この中に「あなたは殺してはならない」という言葉があります。人が人を殺してはいけないのは、どのような理由があったとしても、そもそも<いのち>は神のものだということです。

 わたしたちは今この世の<いのち>に与っており、永眠者を記念することで、神の国に招かれ守られている故人の<いのち>とのつながりを神のもとで確認しています。神の国での故人お一人おひとりの具体的な今については知ることができません。ただ、神のもとで安らかであると信じることができるだけです。神は、この世の<いのち>も、死後の<いのち>も良きこととして尊ばれる方であると教会は信じてきました。プロテスタント教会は宗教改革の歴史の中で、自分たちはこのように信じているのだとの文章を数多く残しています。その一つにハイデルベルク信仰問答というものがあります。1563年にドイツの町ハイデルベルクにおいて作成された、問とその模範解答です。この中から問Ⅰとその答を読んでみます。次のようにあります。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 このような信仰のあり方はバルメン宣言にも継承されています。バルメン宣言とは、1934年5月29-30日の会議で制定されたもので、正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。これはナチス・ドイツに対して抵抗するものとして成立していますが、今日のわたしたちにとっても意義ある言葉だと思うのです。第1項から引用します。

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 この世における生も死もイエス・キリストの神のものであると信じ認めることは、<いのち>に対する謙虚さと尊敬へと導くものです。さらには、信じる者が、この世における責任的な生き方を選び取ることをも感謝と共に要求します。わたしたちは、あくまで神の前においては被造物・創られた存在にすぎないのです。この点に関して思い上がるときに道を逸れ、的を外ししてしまうのです。「罪」という言葉があります。罪とは、何か悪いことをしてしまうことという枠には収まりません。まずは神との関係において的を外してしまうことです。人が、この世において死を迎える理由を創世記2317節から19節で説明しています。

神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。

 食べてはならないと禁じられた実を蛇の誘惑のゆえに食べてしまったことから、エデンの園を追い出されていく。ここから人の死が決定されたというのです。これを決定的な罪の一つとして聖書は理解しています。神によって良きものとして息を吹き入れられたものでありながら、神からの忠告を聞かず、自分たちの思い上がりに敗北した結果とされます。人が土の塵などではなくて、もっと優れた何者かであること、そうなりたいという願望が罪だと断罪されているのです。この、神が息を吹き入れて生きるものにしなければ人は<いのち>あるものではない、という事実に対する謙虚さを忘れたのが現代ではなくて、人の創造物語の続きとして描かれていることに注意しておきたいものです。人は、自由意志が与えられているがゆえに、思い上がりや傲慢さを抱くことができてしまうのです。

 このように、生から死へ向かう<いのち>というところに留まり続けているのであれば、わたしたちは故人のことを思い出し、追悼し、悲しみの場に立ちつくすことに終わりはありません。しかし、思い出し、追悼、悲しみの質は、今やイエス・キリストによって方向が転換されている。ここにキリスト教の理解による慰めがあります。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙5章19節で次のように述べています。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 このパウロの言葉の文脈は、最初の人によってもたらされた罪の事態が、一人のイエス・キリストによって正されて<いのち>に至る道が開かれたことを示しています。

 通常、わたしたちの常識的な<いのち>の理解は、生から死という方向です。ところが、イエス・キリストを信じる信仰からすれば、死から<いのち>への方向性も開かれているというのです。この世における死の出来事は、わたしたちを恐れさせ、不安にさせます。しかし、この世における死の出来事は、終わりではなくて、この世に残された人たちとの<いのち>を結ぶ力でもあります。ですから、わたしたちは今、この世から去ったお一人おひとりを思い起こすときに、悲しみや嘆きを素直に語り合うことができるし、このことは守られているのです。イエス・キリストが死人の中からよみがえった事実は、死から<いのち>の方向を力強く支えるのです。

 ですから、わたしたちは主イエス・キリストの慰めのゆえに、神の国で守られているお一人おひとりを思い起こすことが許されているのだし、関係は生き続けるのです。よみがえりの主イエス・キリストは、この世にあるお一人おひとりと神の国にあるお一人おひとりとのすべての関係を執成し続けてくださるのです。このことを信じさえすればいいのです。主イエス・キリストは、わたしたちの誰よりも悲しみ嘆きを知り抜かれている方です。神の国の側のお一人おひとりとの関係を放り出すことは決してなさらないのです。神の<いのち>の息は、この世においても神の国においても爽やかであり力強く吹きかけられていることを信じたいと思います。吹き入れた<いのち>の息に神の思いが満たされていることをご一緒に確認するひと時であったことを感謝します。

 神のもとに招かれたお一人おひとりは、誰彼と交換することが不可能な大切なかけがえのない<いのち>です。そのお一人おひとりに対する、わたしたちの慈しみと愛は、この世にある責任において安心のもとで赦されているものです。もしかしたら、忘れてしまいたいと思うような、負の関係性にあった人の死、という経験もあるかもしれません。しかし、その思いも含め、神は丸ごと受け止めて赦してくださるのです。思い出すこと、そして思い出さないこと、懐かしむこと、追悼すること、どれもみな、わたしたちに与えられた故人とのつながりです。かつて一緒に生きていた<いのち>とわたしたちの間を、主イエス・キリストが取り結んでくださっているがゆえに、故人お一人おひとりに対する正直さと謙虚さを持ち続けることができるのです。先ほどのハイデルベルク信仰問答の1にあるように慰めは主イエス・キリストにのみあるのです。生と死をも司る、この主イエス・キリストに委ねて歩んでいきましょう。

 ご一緒に祈りましょう。

【祈り】

すべての<いのち>の源であり、司り続けているところの主なる神!

この永眠者記念礼拝が主イエス・キリストの守りのうちにあることを信じ、感謝します。

この世の<いのち>も神のもとでの<いのち>も神のものです。

ご遺族お一人おひとりに主イエス・キリストの慰めが豊かでありますように。

関係性を育て続けてくださいますようにお願いします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

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