イザヤ書 11章6~10節 「神さまの願い」
~子ども祝福礼拝~
イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語ります。肉食動物が草食動物を襲って食べるようなことはしないで一緒にいられて平和な状況にあることが書かれています。ここで肉を食べる動物は、強くて威張っている人々の喩えになっています。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、という世界ではなく、神によって<いのち>与えられているもの全てが同じ地平に立っている、という世界です。そして、そういう世界を導くのは小さな子どもだ、というのです。おとなたちは、強い人はより強く、弱い人はより弱く、という世界に慣れてしまっています。でも、子どもは、小さければ小さいほど、強さも弱さも関係なく、自分を助けてくれる人を信頼して生きています。それが神の心に適った生き方です。おとなたちよ!子どもを見習いなさい、というわけです。
「ぱぎやん」という人の「グーチョキパーのうた」という歌があります。「グーより強いのはパー、パーより強いのはチョキ、チョキより強いのはグー」と歌います。続けて今度は、「グーより弱いのはチョキ、チョキより弱いのはパー、パーより弱いのはグー」そして「みんな強くてみんな弱い…」と続きます。わたしたち一人ひとりみんなは、それぞれ「グーチョキパー」なのだというのです。みんな強くてみんな弱いというのは、強い人がずっと強いままだったり、弱い人が弱いままだったりするのはおかしい、その場その場で強くなったり弱くなったり違うのだし違っていいというのです。みんな一人一人が違う人なのだから、この違うという当たり前を受け入れるところから始めていこうという呼びかけを感じます。じゃんけんで勝つこともあれば負けることもあるけれど、全体から見ればOKだし大丈夫。一人ひとりがそれぞれ、イエスさまによって喜ばれ祝福されているのです。
預言者イザヤの語る世界観と「グーチョキパーのうた」は同じ方向を向いています。わたしたちの心もみんながグーチョキパーだと分かってきたら、もうすでに「平和」を求める神の子どもになっているのかもしれません。そんな子どもになっていくことが神の願いなのだと思うのです。
そしてさらには、おとなたちが子どもの言葉に耳を傾けつつ導かれ、子どもが神の願う平和への道をおとなに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができるのではないでしょうか。そのような思いへと子どももおとなも神の子どもとして招かれ、この生き方を主イエスが教えてくださっているのではないでしょうか。
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