マタイによる福音書 7章13~14節 「命へ通ずる門」 井谷 淳 伝道師
童話で「裸の王様」のお話があります。「世」における権威に酔いしれている王様に対して仕立て屋が甘言と伴に「透明な洋服」を仕立て、王様を騙すのです。騙されている事に疑いを持たず、「透明な洋服」を着て、裸で街を自慢気に練り歩く王様の姿に誰も何も言いません。裸の人物が「王様」であるからです。勇気の或る少年が「王様は裸じゃないか」と王様と取り巻きの群衆に対して「指弾」をするのです。イエスの存在はこの指弾をした少年に非常に酷似します。この物語の状況が「世」の在り方をそのまま現しているからであります。権威に酔いしれ、国民の貴重な税金を、詐欺師の仕立て屋に渡してしまう。国民の生活を守る為の金銭を自尊心の為に浪費した王様の胸中に国民の命の在り方は微塵たりとも存在しません。また裸である王様に対して諫言を述べる国民は一人も存在せず、そこに「共生」は存在しません。搾取・被搾取という「非人間的な収奪構造」が残るのみです。
私達は、社会における最大公約数的な感覚に身を委ねる事により、生活の座がある共同体の中で安心感を得ようとしている。そのような性質を悲しい性(さが)として持っているのではないでしょうか。「しょうがない」という言葉で目の前の理不尽で不条理な状況を通過させてしまう、イエスの主張はそれを許しませんでした。マタイ福音書20章1節~16節に描写される様々な状況的な逆転劇は、理不尽なまま通過してゆこうとする「やるせない現実の在り方」に対して一石を投ずるものであり、イエスやその周囲の仲間が置かれていた、切迫した実存がその文脈の背後には存在するのであります。イエスの身を切るような、そして絞り出すような数々の言葉はイエスが周囲の仲間と共有し、共に生きていた時代の在り方を表すものでもあり、理不尽な状況の中で亡くなっていった仲間や社会から置き去りにされた仲間の現実をそのまま表しているのです。新約聖書中に病人を癒してゆくイエスや、姦淫の罪を犯した女性を庇ってゆく場面においてイエスは単なるオブザーバーや同情する通行人として、「其処に」居た訳ではありません。例え初対面であったとしてもイエスにとっては共に理不尽な現実を共有する仲間であり、イエスも共に苦しんでいるのです。そして現代においても、私達と共に苦しみ続けるイエスの姿が「命へ通ずる門」として在り続け、私達は毎週この「門」に出会っているのです。
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