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2021年11月

2021年11月28日 (日)

テサロニケの信徒への手紙一 5章1~11節 「主は来られる」

 今日はクリスマスを待つことを、主イエスが再び来られる「再臨」の信仰的な立場から考えていきたいと思います。テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書に残されているパウロが実際に書いたとされるものの中で一番古いものです。テサロニケ教会で問題になっていたのは、みんな揃って生きたままで来臨・再臨の主イエスをお迎えするはずだったのに死人が出てしまうとは一体どういうことなのだ、という動揺であったと思われます。

 ここでパウロが示しているのは、来るべき日の審きにばかり目を向けるのではなくて<今>を生きる態度への方向転換とお互いの励まし合いの勧めです。<今>を生きる態度を整えることです。確かに主は来られる。その主の前にあって、<今>をどのように生きるべきか、ということです。

 フィリピの信徒への手紙320節には、「 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」とあります。キリスト者の本国は天にあるけれども、いえ、天にあるからこそ、この世における旅を続けるにあたっては、為すべき務めを果たしつつ生きる責任があります。

 ですから、この、主が来られるという約束は、教会という群れとその一人ひとりの<今>の在り方を問うと同時に、より相応しい在り方へと導くものです。やがて来られる主イエスは新しい天と地とを実現するのです。誰もがお互いのいのちを尊重し喜び合っていける完全無欠な水平社会が成立するのです。それは、人間の間に権力や差別を介して分け隔てする一切の壁が取り払われた世界です。このやって来ると約束された世界観に触れた者は、いまだ神の国がやって来ていない時代にあっても、<今>を責任的にキリスト者としての務めに生きるように招かれているのです。

 この世の風潮に巻き込まれがちであることを自覚しながら、この世に対する諦めや絶望ではなく、また神の国への熱狂でもない在り方を目指したいものです。主が来られるまで、この世における旅人としての責任性に生きるために祈りつつ、目覚めた生き方へと招かれていることを自覚したいと願うのです。この方向に向けて心を上げつつクリスマスを待ち望みましょう。

2021年11月21日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「育てるのは神」

 主イエスの姿勢は、たとえば農作物についての態度から分かる楽観性にあると思います。それが今日の聖書の箇書です。農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育っていくのだというのです。主イエスは大工仕事をしていたと言われていますが、農民の日々の暮らしぶり、種を蒔く前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒を見るという大変さを知らなかったはずがないのです。にもかかわらず放っておけば育って実りをもたらすと言い切るのです。ここには、蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、放っていたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性が見られます。

 この楽天性をお気楽とか、ものを考えない愚かさだと勘違いすべきではなりません。楽天性から現実の厳しさを見据えて、そしてより喜ばしい生き方への可能性を広げていくイメージへと導かれていくものだからです。現代日本の住宅街で祝う収穫感謝は、直接的に農作物というよりは、生活困窮の問題として浮かび上がってきます。持てる者と持たざる者という図式の中でわたしたちは何を為すべきなのか。

 主イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うということです。主イエスのおおらかさに倣うことです。

やがて来るべき日には、神の前での絶対平等な世界がやって来るのだから、その姿を心に刻むことから今を照らし出していけば、為すべきことを理解し、実行していく在り方へと導かれていくのではないでしょうか。楽観に支えられた現実認識から委ねていくことへと歩むことができるはずなのです。主イエスは十字架直前に次のように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。神に委ねるということは、何もしなくていい、ということでは決してありません。全面委任であるからこそ、為すべきことを為していく責任を負うことができるのです。主イエスの楽観性に与っていくならば別の事柄に変えられていくことを信じることはできるのです。

2021年11月14日 (日)

イザヤ書 11章6~10節 「神さまの願い」

 ~子ども祝福礼拝~

 イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語ります。肉食動物が草食動物を襲って食べるようなことはしないで一緒にいられて平和な状況にあることが書かれています。ここで肉を食べる動物は、強くて威張っている人々の喩えになっています。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、という世界ではなく、神によって<いのち>与えられているもの全てが同じ地平に立っている、という世界です。そして、そういう世界を導くのは小さな子どもだ、というのです。おとなたちは、強い人はより強く、弱い人はより弱く、という世界に慣れてしまっています。でも、子どもは、小さければ小さいほど、強さも弱さも関係なく、自分を助けてくれる人を信頼して生きています。それが神の心に適った生き方です。おとなたちよ!子どもを見習いなさい、というわけです。

 「ぱぎやん」という人の「グーチョキパーのうた」という歌があります。「グーより強いのはパー、パーより強いのはチョキ、チョキより強いのはグー」と歌います。続けて今度は、「グーより弱いのはチョキ、チョキより弱いのはパー、パーより弱いのはグー」そして「みんな強くてみんな弱い…」と続きます。わたしたち一人ひとりみんなは、それぞれ「グーチョキパー」なのだというのです。みんな強くてみんな弱いというのは、強い人がずっと強いままだったり、弱い人が弱いままだったりするのはおかしい、その場その場で強くなったり弱くなったり違うのだし違っていいというのです。みんな一人一人が違う人なのだから、この違うという当たり前を受け入れるところから始めていこうという呼びかけを感じます。じゃんけんで勝つこともあれば負けることもあるけれど、全体から見ればOKだし大丈夫。一人ひとりがそれぞれ、イエスさまによって喜ばれ祝福されているのです。

 預言者イザヤの語る世界観と「グーチョキパーのうた」は同じ方向を向いています。わたしたちの心もみんながグーチョキパーだと分かってきたら、もうすでに「平和」を求める神の子どもになっているのかもしれません。そんな子どもになっていくことが神の願いなのだと思うのです。

 そしてさらには、おとなたちが子どもの言葉に耳を傾けつつ導かれ、子どもが神の願う平和への道をおとなに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができるのではないでしょうか。そのような思いへと子どももおとなも神の子どもとして招かれ、この生き方を主イエスが教えてくださっているのではないでしょうか。

2021年11月 7日 (日)

マタイによる福音書 7章13~14節 「命へ通ずる門」 井谷 淳  伝道師

 童話で「裸の王様」のお話があります。「世」における権威に酔いしれている王様に対して仕立て屋が甘言と伴に「透明な洋服」を仕立て、王様を騙すのです。騙されている事に疑いを持たず、「透明な洋服」を着て、裸で街を自慢気に練り歩く王様の姿に誰も何も言いません。裸の人物が「王様」であるからです。勇気の或る少年が「王様は裸じゃないか」と王様と取り巻きの群衆に対して「指弾」をするのです。イエスの存在はこの指弾をした少年に非常に酷似します。この物語の状況が「世」の在り方をそのまま現しているからであります。権威に酔いしれ、国民の貴重な税金を、詐欺師の仕立て屋に渡してしまう。国民の生活を守る為の金銭を自尊心の為に浪費した王様の胸中に国民の命の在り方は微塵たりとも存在しません。また裸である王様に対して諫言を述べる国民は一人も存在せず、そこに「共生」は存在しません。搾取・被搾取という「非人間的な収奪構造」が残るのみです。

 私達は、社会における最大公約数的な感覚に身を委ねる事により、生活の座がある共同体の中で安心感を得ようとしている。そのような性質を悲しい性(さが)として持っているのではないでしょうか。「しょうがない」という言葉で目の前の理不尽で不条理な状況を通過させてしまう、イエスの主張はそれを許しませんでした。マタイ福音書20章1節~16節に描写される様々な状況的な逆転劇は、理不尽なまま通過してゆこうとする「やるせない現実の在り方」に対して一石を投ずるものであり、イエスやその周囲の仲間が置かれていた、切迫した実存がその文脈の背後には存在するのであります。イエスの身を切るような、そして絞り出すような数々の言葉はイエスが周囲の仲間と共有し、共に生きていた時代の在り方を表すものでもあり、理不尽な状況の中で亡くなっていった仲間や社会から置き去りにされた仲間の現実をそのまま表しているのです。新約聖書中に病人を癒してゆくイエスや、姦淫の罪を犯した女性を庇ってゆく場面においてイエスは単なるオブザーバーや同情する通行人として、「其処に」居た訳ではありません。例え初対面であったとしてもイエスにとっては共に理不尽な現実を共有する仲間であり、イエスも共に苦しんでいるのです。そして現代においても、私達と共に苦しみ続けるイエスの姿が「命へ通ずる門」として在り続け、私達は毎週この「門」に出会っているのです。

創世記 2章4後半~7節 「人のいのちは神から」~永眠者記念

 わたしたちは、それぞれ愛する人・親しい人をイエス・キリストの神のもとにお届けしました。お一人おひとりを覚えつつ、この世の死後のいのちを慈しみ守り抜く神に対する信頼をご一緒に新たにしたいと願っています。 今日は、わたしたち今生かされていることから故人を思い出しながら、いのちについて考えたいと思っています。そのために、旧約聖書の最初にある創世記の人が神によって造られたという神話を読みました。これは神話であり、現代人からすれば荒唐無稽な物語と受け止められえても無理はないと、わたしも思います。しかし、神話という表現でなければ描けない<本当>があるはずだとの前提でお話しします。

 簡単にテキストをおさらいしてみます。創世記1章から2章の初めの部分で神が天地を六日で創造され七日目に休まれたとあります。創られた世界は「見よ、極めて良かった」とされます。神が良きものと判断されたのです。人の創造も良きことの文脈として理解することができます。7節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。新共同訳によれば括弧書きで土と人とが、それぞれアダマとアダムと書かれています。要するに土も人も本質において大して変わらないものであることの表明となっています。人が人であるのは、その土の塊に神の息が吹き入れられてはじめて<いのち>あるものとされるのであって、神によらなければ、人は土の塊のままであるような存在なのだというのです。

 神の息によってのみ人は生きるものとされたという信仰は、現代人が<いのち>を思いのままに扱ってもいいという思い上がりに対して警告を与えるものです。人は、<いのち>を自らの知恵や知識、また技術によって創り出すことはできないのだし、してはならない神の領域に属するのだと考えるべきです。

 人の<いのち>とは自分の持ち物では決してあり得ないと、わたしは思います。この世の<いのち>も、やがてわたしたちが向かう神の国での<いのち>にしても、神のものだと信じているからです。わたしたちの<いのち>は神から預かった借りものとしての尊さのあるものだと考えるのです。旧約聖書の中での非常に重要な教えに十戒というものがあります。この中に「あなたは殺してはならない」という言葉があります。人が人を殺してはいけないのは、どのような理由があったとしても、そもそも<いのち>は神のものだということです。

 わたしたちは今この世の<いのち>に与っており、永眠者を記念することで、神の国に招かれ守られている故人の<いのち>とのつながりを神のもとで確認しています。神の国での故人お一人おひとりの具体的な今については知ることができません。ただ、神のもとで安らかであると信じることができるだけです。神は、この世の<いのち>も、死後の<いのち>も良きこととして尊ばれる方であると教会は信じてきました。プロテスタント教会は宗教改革の歴史の中で、自分たちはこのように信じているのだとの文章を数多く残しています。その一つにハイデルベルク信仰問答というものがあります。1563年にドイツの町ハイデルベルクにおいて作成された、問とその模範解答です。この中から問Ⅰとその答を読んでみます。次のようにあります。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 このような信仰のあり方はバルメン宣言にも継承されています。バルメン宣言とは、1934年5月29-30日の会議で制定されたもので、正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。これはナチス・ドイツに対して抵抗するものとして成立していますが、今日のわたしたちにとっても意義ある言葉だと思うのです。第1項から引用します。

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 この世における生も死もイエス・キリストの神のものであると信じ認めることは、<いのち>に対する謙虚さと尊敬へと導くものです。さらには、信じる者が、この世における責任的な生き方を選び取ることをも感謝と共に要求します。わたしたちは、あくまで神の前においては被造物・創られた存在にすぎないのです。この点に関して思い上がるときに道を逸れ、的を外ししてしまうのです。「罪」という言葉があります。罪とは、何か悪いことをしてしまうことという枠には収まりません。まずは神との関係において的を外してしまうことです。人が、この世において死を迎える理由を創世記2317節から19節で説明しています。

神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。

 食べてはならないと禁じられた実を蛇の誘惑のゆえに食べてしまったことから、エデンの園を追い出されていく。ここから人の死が決定されたというのです。これを決定的な罪の一つとして聖書は理解しています。神によって良きものとして息を吹き入れられたものでありながら、神からの忠告を聞かず、自分たちの思い上がりに敗北した結果とされます。人が土の塵などではなくて、もっと優れた何者かであること、そうなりたいという願望が罪だと断罪されているのです。この、神が息を吹き入れて生きるものにしなければ人は<いのち>あるものではない、という事実に対する謙虚さを忘れたのが現代ではなくて、人の創造物語の続きとして描かれていることに注意しておきたいものです。人は、自由意志が与えられているがゆえに、思い上がりや傲慢さを抱くことができてしまうのです。

 このように、生から死へ向かう<いのち>というところに留まり続けているのであれば、わたしたちは故人のことを思い出し、追悼し、悲しみの場に立ちつくすことに終わりはありません。しかし、思い出し、追悼、悲しみの質は、今やイエス・キリストによって方向が転換されている。ここにキリスト教の理解による慰めがあります。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙5章19節で次のように述べています。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 このパウロの言葉の文脈は、最初の人によってもたらされた罪の事態が、一人のイエス・キリストによって正されて<いのち>に至る道が開かれたことを示しています。

 通常、わたしたちの常識的な<いのち>の理解は、生から死という方向です。ところが、イエス・キリストを信じる信仰からすれば、死から<いのち>への方向性も開かれているというのです。この世における死の出来事は、わたしたちを恐れさせ、不安にさせます。しかし、この世における死の出来事は、終わりではなくて、この世に残された人たちとの<いのち>を結ぶ力でもあります。ですから、わたしたちは今、この世から去ったお一人おひとりを思い起こすときに、悲しみや嘆きを素直に語り合うことができるし、このことは守られているのです。イエス・キリストが死人の中からよみがえった事実は、死から<いのち>の方向を力強く支えるのです。

 ですから、わたしたちは主イエス・キリストの慰めのゆえに、神の国で守られているお一人おひとりを思い起こすことが許されているのだし、関係は生き続けるのです。よみがえりの主イエス・キリストは、この世にあるお一人おひとりと神の国にあるお一人おひとりとのすべての関係を執成し続けてくださるのです。このことを信じさえすればいいのです。主イエス・キリストは、わたしたちの誰よりも悲しみ嘆きを知り抜かれている方です。神の国の側のお一人おひとりとの関係を放り出すことは決してなさらないのです。神の<いのち>の息は、この世においても神の国においても爽やかであり力強く吹きかけられていることを信じたいと思います。吹き入れた<いのち>の息に神の思いが満たされていることをご一緒に確認するひと時であったことを感謝します。

 神のもとに招かれたお一人おひとりは、誰彼と交換することが不可能な大切なかけがえのない<いのち>です。そのお一人おひとりに対する、わたしたちの慈しみと愛は、この世にある責任において安心のもとで赦されているものです。もしかしたら、忘れてしまいたいと思うような、負の関係性にあった人の死、という経験もあるかもしれません。しかし、その思いも含め、神は丸ごと受け止めて赦してくださるのです。思い出すこと、そして思い出さないこと、懐かしむこと、追悼すること、どれもみな、わたしたちに与えられた故人とのつながりです。かつて一緒に生きていた<いのち>とわたしたちの間を、主イエス・キリストが取り結んでくださっているがゆえに、故人お一人おひとりに対する正直さと謙虚さを持ち続けることができるのです。先ほどのハイデルベルク信仰問答の1にあるように慰めは主イエス・キリストにのみあるのです。生と死をも司る、この主イエス・キリストに委ねて歩んでいきましょう。

 ご一緒に祈りましょう。

【祈り】

すべての<いのち>の源であり、司り続けているところの主なる神!

この永眠者記念礼拝が主イエス・キリストの守りのうちにあることを信じ、感謝します。

この世の<いのち>も神のもとでの<いのち>も神のものです。

ご遺族お一人おひとりに主イエス・キリストの慰めが豊かでありますように。

関係性を育て続けてくださいますようにお願いします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

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